ソニア先生の一日:後編
教室に戻る道すがら、ソニアはまだ胸の高鳴りが収まらなかった。誰かに何かを教えて、それが実を結ぶ。こんなにも嬉しいことだったなんて、知らなかった。
「私、やっぱり教師になりたい」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「その調子だと、午後はもっと大変なことになりそうだけどね」
アナスタシアが、含みのある声で言った。
「え?どういうこと?」
「いや、なに。ただの勘さ」
アナスタシアは、それ以上は答えなかった。
午後の授業は、国語の時間だった。今日の課題は、教科書に載っている物語を読んで、感想を二人一組でまとめること。
「じゃあ、好きな人同士で組みなさい」
ロネアの一言で、教室が一気にざわめいた。椅子を引く音、机を寄せる音、名前を呼び合う声。あっという間に、教室のあちこちでペアが出来上がっていく。
ソニアは、教室の隅でその様子を眺めていた。
あれ……。
窓際の一番後ろの席で、ミアだけが、机の上の教科書を見つめたまま動かなかった。周りの子ども達は、次々と誰かの隣へ移動していく。
「えー、誰もミアと組みたがらないじゃん」
少し離れた席から、そんな声が聞こえた。朝、目を輝かせて「ドラゴンを倒したんだって!」とソニアに詰め寄っていた子の一人だった。悪気はなさそうだったが、その一言に、周りの何人かがくすくすと笑う。
ソニアは、その声のした方へ、まっすぐ目を向けた。
「今の、良くないよ」
声は、優しかったが、はっきりしていた。
「え……」
言った本人が、驚いたように顔を上げる。ついさっきまで、目をきらきらさせてソニアの話を聞いていた子だった。
「悪気はなかったんだと思う。でも、ミアちゃんに聞こえてたよ」
その子は、気まずそうに俯いた。
「……ごめん」
「私にじゃなくて」
ソニアは、ミアの方を見た。その子は、ミアの方を向いて、もう一度小さく頭を下げる。
「ミア、ごめん」
ミアは、驚いたように顔を上げたが、何も言えずに小さく頷いた。教室は、また元のざわめきに戻っていく。それでも、ミアだけは、まだ動けずにいた。
「はい、まだ組んでない人?」
ロネアが、教室を見回して聞く。数人の手が挙がる中、ミアだけは、手を挙げなかった。俯いたまま、小さくなっている。
「ミアさんは……」
ロネアが名簿に目を落とし、機械的に処理しようとする。
「先生、ちょっと待ってください」
ソニアは、思わず声をかけていた。
「ソニアさん?」
「あの、ミアちゃんに聞いてから決めてもいいですか?」
ロネアは、怪訝そうな顔をしたが、頷いた。
「……好きにしなさい」
ソニアは、ミアの席へ近づき、しゃがみ込んだ。
「ミアちゃん、誰と組みたいとか、ある?」
「……誰でも、いい」
ミアは、そう答えて目を逸らした。
「本当に?」
ソニアは、優しく重ねて聞く。ミアは黙っていたが、視線がほんの一瞬、教室の反対側へ動いたのを、ソニアは見逃さなかった。
その先には、一人の男の子がいた。図鑑を片手に、まだペアが決まらず所在なさげにしている。ノアという名前だったはずだ。
「ノア君と組みたいの?」
ミアの肩が、びくりと跳ねる。
「な、なんで……」
「今、ちらっと見てたから」
「……ち、違うもん」
ミアは、慌てて首を振る。だが、耳が赤くなっているのを、ソニアは見逃さなかった。
「どうして?」
「だって……」
ミアは、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言う。
「前に、ノア君が、休み時間に森のお話の続きを読んでるの、見たことあって……。私も、同じ本、好きだから……」
「じゃあ、聞いてみようよ」
「む、無理だよ!」
ミアは、勢いよく首を振った。
「私、誰かに話しかけたことなんて、ほとんどない。それに、断られたら……」
「断られたら、悲しいね」
ソニアは、静かに頷いた。
「でも、聞かなかったら、ずっと『もしかしたら』のままだよ」
「……」
「大丈夫。私、ここで待ってるから」
ミアは、しばらく教科書を見つめていた。それから、小さく息を吸い、立ち上がった。だが、三歩も歩かないうちに、足が止まる。
「や、やっぱり……」
ミアは、逃げるように自分の席へ戻ろうとした。
「ミアちゃん」
ソニアは、それを止めなかった。ただ、名前を呼んだだけだった。
ミアは、振り返る。
「大丈夫だよ。今日、無理なら、また今度でも」
その一言に、ミアの表情が、少しだけ動いた。
「……今度は、ない、かもしれない」
小さな声で、そう呟く。
「今日だから、聞けるかもしれないって、思ったから」
ミアは、もう一度、ノアの方を見た。今度は、目を逸らさなかった。
ゆっくりと、一歩ずつ、ミアはノアに近づいていく。周りの子ども達は、既に自分達のペアで話し始めていて、誰もミアの方を見ていない。それでも、ミアにとっては、教室中の目が自分に集まっているように感じられた。
ノアの目の前まで来ると、ミアは、もう一度止まった。
「……あ、あの」
声が、震えている。ノアが顔を上げた。
「え、僕?」
「その、森のお話……好き、なの?」
ノアは、きょとんとした顔をした。
「うん、好きだけど」
「わ、私も……好きで……」
ミアの声は、消え入りそうだった。
「だから、その……よかったら、一緒に……」
最後まで言い切れず、言葉が途切れる。ノアは、少しの間、ミアを見つめていた。
「……いいの? 僕と組んで」
「え?」
「僕、いつも一人だから。誰も、僕とは組みたがらないし」
ノアは、少し困ったように笑った。
「僕も、その本、好きだよ。あの、湖のところの場面が、特に」
「わ、私も! あそこ、何回も読み返した!」
ミアの声が、初めて弾んだ。二人は、互いに顔を見合わせ、それから、ぎこちなく笑い合った。
「じゃあ、一緒に、組む?」
「う、うん!」
ミアは、大きく頷いた。
少し離れた場所から、その様子を見ていたソニアは、小さくガッツポーズをした。
「やった……」
「良かったねぇ、ご主人様」
アナスタシアが、フードの中から囁く。
「うん。本当に良かった」
ソニアは、目に浮かんだ涙を、こっそり指で拭った。誰かが誰かに手を伸ばす瞬間は、何度見ても、胸が熱くなる。
教室の一角では、ミアとノアが、教科書を挟んで顔を寄せ合い、小さな声で話し始めていた。その光景は、先程までの、一人きりで俯いていたミアとは、まるで別人のようだった。
◇
休み時間、ソニアはミアの席に近づいた。
「ミアちゃん、頑張ったね」
「……うん」
ミアは、まだ少し照れたような顔をしていた。
「怖かった?」
「怖かった。でも」
ミアは、少しだけ笑った。
「聞いて、良かった」
「そっか」
「先生が、待っててくれたから」
ミアは、そう言うと、また教科書に視線を落とした。だが、その横顔は、もう俯いてはいなかった。
◇
感想をまとめる時間になると、ミアとノアは、机を寄せ合って本を広げた。
「この場面、何回読んでも泣きそうになる」
ノアが、湖の場面を指しながら言う。
「わかる。私、この本、家にたくさんあるから、何度も読み返してるの」
「たくさん?」
「うち、本屋なの。小さいけど」
ミアは、少し照れたように言った。
「お父さんとお母さんが、お店番してて。私、いつも一人でお店の隅で本を読んでる。誰も、話しかけてくれないけど、本の方が、こっちから話しかけてくれるみたいで」
ノアは、その言葉に、じっと耳を傾けていた。
「僕も、似てるかも」
「え?」
「僕んち、父さんが忙しくて、あんまり家にいないんだ。だから、図書室とか、静かな場所にいる方が、落ち着く」
二人は、しばらく黙って顔を見合わせた。それから、どちらからともなく、小さく笑った。
「今度、私のお店、来る?」
「行きたい」
ノアが、即答した。ミアの顔が、ぱっと明るくなる。
その様子を、少し離れた場所からソニアは見ていた。誰にも見つからずにいた二つの孤独が、たった一日で、静かに重なり合っていく。
◇
帰りの会が始まる前、教室はまだ午後の高揚に包まれていた。レオンは自分の杖を大事そうに抱え、ミアはノアと小声で本の話を続けている。朝ミアをからかった子も、今は二人の輪に混ざって、本の話に相槌を打っていた。
「ソニア先生!」
一人の男の子が、机の間を縫って駆け寄ってきた。
「また、来てくれる? 明日も?」
「わ、私も! また炎魔術教えて!」
「今度は氷の魔術も見せてよ!」
あっという間に、ソニアは子ども達に取り囲まれた。
「え、えっと……」
ソニアは、返答に詰まる。今日という日が、あまりにも濃密だった。この子達との一日は、もう終わってしまう。それが、少し寂しかった。
「また、来るね」
深く考えずに、そう言ってしまった。子ども達が、歓声を上げる。
「約束だよ!」
「うん、約束!」
その光景を、教室の後ろから見ていたロネアが、静かに口を開いた。
「ソニアさん。少し」
声には、いつもより低い響きがあった。ソニアは、子ども達に手を振ってから、ロネアの元へ向かう。
「今の言葉、本気ですか」
「え?」
「『また来る』と、簡単に言いましたね」
ロネアの目は、まっすぐソニアを見ていた。
「あなたは、明日には高等部の生徒に戻ります。これから先、何が起きるか分かりません。ここへ戻ってくる保証など、どこにもない」
「そんな、こと……」
「子どもは、大人の『また来る』を、簡単には忘れません」
ロネアの声は、静かだったが、鋭かった。
「今日、レオンもミアも、あなたに何かを渡された。もし、あなたが来なければ、それは裏切りになります」
ソニアは、言葉に詰まった。今日一日の高揚が、急速に冷めていく。
私、簡単なことを言ってしまったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
ソニアは、俯いた。
「軽く、言ってしまいました」
ロネアは、何も言わなかった。ただ、じっとソニアを見ている。
ソニアは、しばらく黙っていた。それから、顔を上げる。
「軽々しく言ったことは、謝ります。でも」
ソニアの声に、少しずつ力が戻ってくる。
「いつ戻ってこられるかは、正直、私にも分かりません。来週かもしれないし、来年かもしれない。もっと、先かもしれない」
「それでは、なおさら軽い約束です」
ロネアは、間髪入れずに言った。
「先の話であればあるほど、口先だけで済ませられる。誰にでも言えることです」
「分かってます」
ソニアは、大きく息を吸った。それから、振り返る。
「レオン君、ミアちゃん」
二人が、驚いた顔でソニアを見た。
「私、まだ全然半人前だし、これから先、色んな所に行かなきゃいけないかもしれない。すぐには、戻ってこられないかもしれない」
ソニアは、一度言葉を切った。
「それでも、私は絶対に、ちゃんとした教師になる。それで、絶対にまた、ここに戻ってくる」
「ソニア先生……」
「時間が、どれだけかかっても。だから」
ソニアは、少しだけ笑った。
「忘れないでいてね、この約束。もし私が忘れそうになったら——先生から、叱ってやってください」
ロネアは、目を見開く。
教室にいた子ども達は、きょとんとした顔でソニアを見ていたが、やがてレオンが、しっかりと頷いた。
「うん。約束、絶対に覚えてる」
「わ、私も」
ミアも、小さく頷いた。
ロネアは、しばらく黙ってソニアを見つめていた。
「……何年もかかる約束ほど、破られやすいものです」
それでも、その声には、先程までのような鋭さはなかった。
「それを承知の上で、子ども達の前で言い切るとは。思っていたより、無鉄砲な人ですね」
「よく言われます」
ソニアは、へらりと笑った。ロネアは、小さく息を吐く。その表情には、まだ完全な信頼はなかった。それでも、僅かに、何かが変わったように見えた。
◇
放課後、帰りの会が終わると、子ども達が次々と教室を出ていく。最後に残ったロネアが、片付けをしているソニアに声をかけた。
「ソニアさん」
「は、はい!」
ソニアは、慌てて姿勢を正す。
「今日一日、見ていました」
ロネアは、いつもの仏頂面のまま言う。
「あなたは、生徒全員の名前を覚えていましたね。ミアの名前まで」
「え、それは……」
「私は、正直に言えば、あの子の名前をすぐには思い出せません。半年、担任をしているのに」
ロネアは、窓の外へ目をやった。
「あなたを慕っていた子が、ミアをからかった時も、はっきりと『良くない』と言いました。そして、さっきの約束」
「あ、あれは……」
「軽率だとは、今も思っています。それでも」
ロネアは、初めて、まっすぐソニアを見た。
「逃げ道を残さずに、子ども達の前で言い切った。あれができる大人は、多くありません」
「先生……」
「勘違いしないように。私は、まだあなたのやり方の全てを認めたわけではありません」
ロネアは、ふんと鼻を鳴らした。だが、その口元には、確かに小さな笑みが浮かんでいた。
「その約束、いつか本当に果たしに来た時は——きちんと、迎えてあげましょう」
そう言い残すと、ロネアは踵を返して教室を出ていった。ソニアは、その背中が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。
「……今の、褒められたよね?」
「褒められたね。それに」
アナスタシアが、くすりと笑う。
「約束は、いい重荷になったんじゃないかい」
「何それ」
「いつか必ず、果たさなければならないものが増えた、ということさ。ご主人様は、自分で自分の道を、また一つ決めたんだね」
ソニアは、へなへなとその場に座り込んだ。全身から力が抜けていく。それでも、胸の中には、今までにない確かな手応えが残っていた。
◇
放課後、初等部第二校舎を出たソニアは、夕暮れの中を高等部へ戻る道を歩いていた。今日一日の出来事が、頭の中をぐるぐると巡っている。
「疲れたかい、ご主人様」
フードの中から、アナスタシアが静かに尋ねる。
「疲れたけど……なんか、悪くない疲れかも」
ソニアは、空を見上げて笑った。
「ご主人様よ」
アナスタシアの声が、少しだけ改まった。
「一つ、聞いてもいいかい」
「何?」
「前に、上級生に絡まれた時のこと、覚えているかい。あと、ヨシュアとの決闘の時も」
「うん、覚えてるよ。それが?」
「あの時、僕には辺りの何もかもが止まって見えたんだ。二度とも」
ソニアは、足を止めた。
「止まって……?」
「風に煽られた外套も、砂粒も、瞬きさえも。動いていたのは、僕とご主人様だけだった」
ソニアは、記憶を辿ろうとした。だが、出てくるのは恐怖と、誰かを守りたいという気持ちだけで、その間に何が起きたのかは、綺麗に抜け落ちている。
「……分からない」
ソニアは、正直にそう答えた。
「本当に、何も覚えてないの。気づいたら、もう終わってて」
「そうか」
アナスタシアは、それ以上追及しなかった。
「まあ、いい。いつか分かる日も来るだろうさ」
「何それ、気になるじゃない」
「ふふ、秘密さ」
アナスタシアは、はぐらかすように笑った。ソニアは頬を膨らませたが、それ以上は聞かなかった。
夕日に染まる道を、ソニアはゆっくりと歩いていく。今日一日で、何かが少しだけ変わった気がした。




