ソニア先生の一日:前編
ヨシュアの事件が終わってから、学院は少しずついつもの姿を取り戻していた。選択科目である炎属性実践魔術。そして、授業が終わればセラとアナスタシアによる魔術の特訓が待っていた。教師になるために魔術学科へ進むつもりだったソニアにとって、今の生活は思い描いていたものとは大きく違う。それでも、以前のように嘆いてばかりではいられなかった。
セラにも、これからのことをやる前から諦めるなと言われた。
アナスタシアにも、人を導く力があると認めてもらった。
だから、ソニアは騎士科で学びながらも、教師になるために自分ができることを探していた。しかし、ソニアを取り巻く環境はさらに変化していた。廊下を歩けば知らない生徒に会釈をされ、食堂に入れば数人がこちらを盗み見て、慌てて目を逸らす。英雄、という言葉が、ソニアの後ろをずっとついて回っていた。何より…………。
「ソニア様が来たぞ!テーブル、机に一切のゴミ、いや埃一つないだろうな!」
「当たり前だ!ソニア様の御服に汚れ一つつけさせるつもりはない!」
ソニア公認(非)ファンクラブの生徒たちが、ソニアが食堂に入って来るや否や一本の道を作る。ソニアは一切頼んでもいないが、ここに座ってくださいとばかりの圧力だ。
「えぇ、今日もなの……。やだなぁ、まるで私がみんなをどかしてるみたいじゃない」
ソニアはバツが悪そうに、そそくさと座る。
「ふん。気にすることはないわ。好きなようにやらせておくといいのよ」
セラはいつも通りの不愛想な顔で席に着く。
「でも、あまり居心地は良くないよねぇ」
クララもソニア同様、あまり目立つのが好きではないようで頭を低くして座る。三人はテーブルに座ると、ほどなくしてランチを始める。相変わらず周囲からの視線は痛いほど感じる。
「そうだ、ソニア。午後の予定はわかっているわね」
セラがソニアに午後のスケジュールを確認する。
「う、うん。エドワード先生のところに行くんだよね。私の押収された道具を返してもらうために」
「全く……ただの手続きに時間を取りすぎなのよ。生徒会が何度要求したことか」
生徒会長であるヨシュアがいなくなり、ルミエラとロジェを中心に生徒会は立て直しを迫られていた。その中、セラはヨシュアの事後処理に当たっていた。
「エドワード先生、怖いんだよなー。誰か一緒に来てくれないかな」
ソニアは二人をちらりと見る。
「嫌よ」
「嫌ね」
セラは仏頂面、クララは笑顔で即答された。その後のランチは、涙で少ししょっぱく感じた。
◇
昼食後、食堂でセラとクララとは別れ、そこからソニアは高等部総合職員棟へと向かう。そこは、ログロース学院高等部の各学科の職員が研究や事務作業をするための棟で、個々の個室も有れば会議室等もあり、生徒達は滅多に入ることはない。
職員棟のエントランスをくぐると、長く薄暗い廊下だった。誰一人として歩いていない。
「うわぁ、不気味〜」
ソニアは恐々と辺りを見渡しながら歩いていく。
「そうかい?僕の時代は大体こんな感じだけどね。なんなら僕が変わろうか?」
「い、いいよ……」
アナスタシアはフードの中でけらけらと笑っている。廊下を歩いていくと、ソニアはエドワードと書かれた扉の前で止まった。ドアの前で息を整えてから、ノックをする。すると、中から「入りなさい」と声がした。
「ソニア・エヴァークレスト。入ります」
ソニアは静かにドアを開けると中へ入っていく。エドワード先生は、部屋の奥の大きな執務机に座っている。その机にはたくさんの本が積み重ねられているが、端はきっちりと揃えられて、几帳面な性格がうかがえる。
「ここ数日、教師達からの聴取など色々とご苦労だった」
「あ、ありがとうございます」
ソニアは労いの言葉をもらえて少し安心した。安心したため少し周りが見え、エドワード先生の仏頂面がセラとあまりに似ていて、思わず笑ってしまいそうになった。机の上にはソニアの見慣れたものが置いてあった。ソニアの魔術杖と、『時の魔術書』だった。
「事件の時に学院で預かっていた物だ。確認してくれ」
「はい」
ソニアは最初に魔術杖を手に取った。傷もなく、握り慣れた柄の感触も前と変わらない。ようやく戻ってきたことに少し安心していると、エドワードが時の魔術書を持ち上げた。『Codex Ars Chronos』。
「しかし、時魔術か」
「はい?」
ソニアは、急な返答に頭が回らずに思わず聞き返してしまう。
「いや。まさかこの時代に時魔術を使おうとする者がいたとは思わなくてな。ははは」
エドワードは時の魔術書の表紙を眺めながら、面白そうに笑った。
えっ、エドワード先生が笑った?
ソニアは危うく声を出しそうになった。
「随分と珍しい物を持っている生徒がいたものだ。このような魔術は、アナスタシアのようなおとぎ話でしか聞いたことがなかったぞ」
「こ、これは、私の家に昔からあったものなんです……本物の魔術書かどうか分からなくて、でも不思議と持ち歩いてしまってるんです」
「そうか。まあ、使えたら面白いものだな。今年の首席は、なかなか興味深いの」
エドワードはそれ以上追及せず、時の魔術書をソニアへ差し出した。
「時間だけは、須く万物に流れる理だ。時間を大切にして精進するといい」
そう言うと、エドワードは真剣な顔付きですっと背筋を正す。
「ここに呼んだのは、その返却だけが全てではない。ソニア、君に話がある」
それにつられて、ソニアもピンと背筋を正した。
「何でしょう」
「ソニア・エヴァークレスト。騎士科一年。第一騎士団所属。編成試験では実技主席。第三騎士団へ帯同した際には、色付きのドラゴン討伐へ参加。生徒会長の不正を暴き、その暴走を止めた。そしてつい先日は、第一騎士団の初任務で、逃げ遅れを一人も出さなかったと聞いている」
「ほとんどアナスタシアです……」
急にこれまでの、自分の能力以上の経歴を並べられて、ソニアはもやもやした。
「何か言ったか?」
「何でもありません!」
ソニアは慌てて首を横へ振る。
「随分と華々しいと言うべきか……いや、むしろ特殊な経歴だ」
「うぅ……」
ソニアは褒められているにもかかわらず、その後ろめたさに身体を縮める。最近、学院内でのソニアに対する見方は随分と変わっていた。今までは魔術を碌に使うことのできない生徒という認識だったが、今では実力を隠していた生徒である。編成試験では主席となり、色付きのドラゴン討伐に参加し、さらには生徒会長だったヨシュアを止めた。
今まで魔術が使えないふりをしていたのではないか。
本当はとんでもない魔術の才能を持っているのではないか。
そんな噂まで学院内では流れている。
ソニアとしては、その度に違うと否定したいのだが、あれだけ派手にヨシュアを打ち負かしてしまった手前おいそれと否定はできない。
「しかし、提出された進路希望書には、教師志望とある」
「はい!」
教師という言葉を聞いた途端、ソニアは顔を上げた。
「私は、学院の教師になりたいと思っています」
「騎士科に所属しながらか?」
「そ、それは私が希望したわけではなくて……。でも、騎士科にいても教師になる方法はあると聞きました。実践魔術の教師なら、騎士科からでも目指せると」
「確かに、君の魔術はすこぶる実践的だな」
「…………」
ソニアは、ゆっくりと目を逸らした。フードの中から、アナスタシアの笑いを堪えるような声が聞こえてくる。
「アナスタシア、笑わないでよ……」
「いや、ご主人様が急に自信をなくす様が面白くてね」
「何よ、しょうがないでしょ!」
エドワードにはアナスタシアの声は聞こえない。ソニアが一人でフードへ話しかけているようにしか見えず、僅かに眉を寄せている。
「ソニア、何を一人で言っているのだ?」
「す、すいません!何でもありません!」
ソニアは、何事もなかったように取り繕う。
「そうか」
エドワードはそれ以上追及せず、手元の書類を机へ置いた。
「話というのは、その教師についてだ」
「えっ?」
「本日、初等部の教師が一名、急病で休むことになった。代わりの教師を探していたのだが、ちょうど君の進路希望書が目に入った」
ソニアはエドワードの言葉を理解するまで数秒を要した。
「つまり……どういうことですか?」
「一日だけ、初等部の授業をしてもらいたい」
「わ、私がですかぁ!?」
ソニアの大声が静かな廊下にまで響く。
「無論、一人で全てを任せるつもりはない。正規の教師が補佐には入る」
「でも、私、高等部に入ったばかりですよ!」
「何、君の得意な魔術を教えてあげれば良い」
「私、人に教えたこともありません!」
「だから経験させるのだ」
「それに、皆が思っているほど、私すごくないですよ!」
「そうは思わないが?」
「うぅ……」
全部返されてしまった。
「無理にとは言わん。断っても構わない」
エドワードの言葉に、ソニアは俯いた。自信は全くなかった。人前で話すことも苦手だ。ましてや、自分より幼いとはいえ、何十人もの生徒を前にして何かを教えるなど、考えただけでも足が震える。でも、ソニアは教師になると決めていた。いつかやりたいと思っているだけでは、いつまで経っても何も変わらない。これからのことをやる前から諦めているのは好きではない。以前、セラがそう言ってくれたことを思い出す。
「やります」
ソニアは顔を上げた。
「やらせてください!」
「よろしい」
エドワードは僅かに口元を緩める。
「では、一限目が始まる前に初等部第二校舎へ向かいなさい。学年の教師には話を通してある」
「はい!」
ソニアは勢いよく立ち上がる。
「失礼しました!」
そして、扉へ向かって歩き出した。
「ソニア君」
「はい!」
「そちらは物置だ」
「…………」
ソニアは目の前の扉を見つめた。
確かに学院長室へ入ってきた扉とは、大きさも装飾も違う。
「し、失礼しました!」
ソニアは顔を真っ赤にしながら身体を反転させ、本当の出口へ向かった。
「前途多難だねぇ、ご主人様」
「うるさい!」
◇
ログロース学院初等部第二校舎。高等部の荘厳な石造りの校舎と比べると窓が多く、廊下には色鮮やかな絵や工作が飾られている。壁には季節の花を模した飾りが並び、校舎全体が明るい雰囲気だった。ソニアは廊下を歩きながら、きょろきょろと周囲を見回す。
「懐かしいなぁ。私の通っていた時も、こんな感じだったよ」
「ご主人様にも幼い頃があったのだね」
「当たり前でしょ!」
「いや、今も十分幼く見えるからね」
「アナスタシア!」
ソニアは頬を膨らませ、フードの中へ手を伸ばしてヒヨコをむんずっと掴む。
「痛い、痛い!放しておくれよ!」
「もう一回言ってみて!」
ソニアは、ヒヨコのアナスタシアの頭をぐにぐにと握りながら睨みつける。
「これから教師をしようという人間が暴力を振るってよいのかい?」
「まだ教師じゃないからいいの!」
「それはそれで問題があると思うのだが……」
ヒヨコのアナスタシアをもみほぐしていると、廊下の向こうから一人の男性教師がやって来た。四十代後半ほどだろうか。薄茶色の髪で細い眼鏡をかけている。
「君がソニア・エヴァークレストか」
「はい!よろしくお願いします!」
ソニアはアナスタシアから手を離して、深々と頭を下げる。
「私は初等部一年二組を担当している、ロネア・バーンズです。本日は欠勤した一組のクリフ先生の代わりに、私が二つの学級を行き来することになっています」
「分かりました!」
ソニアはカチンコチンに直立して大声で答える。
「ふん、聞くところによると今年の首席は天才魔術師と呼ばれているそうだね。君が来ると知って。子ども達がうるさくてしょうがない」
「私を知っているんですか?」
「何を今更。あまり下手に出られても、嫌味にしかならんよ……」
「…………」
ソニアの笑顔が固まった。どうやら、好かれてはいないらしい。
「子供たちは噂しているよ、今まで実力を隠していた正義の味方だと」
「誰ですか、そんなこと言ったの!?」
ソニアが否定しようとしたその時、教室の方から子ども達の声が聞こえてくる。
「ドラゴンを倒したんだって!」
「すごい魔術を使うんだろ!」
「高等部でも一番なんだって!」
「今までわざと魔術ができないふりをしてたって、お兄ちゃんが言ってた!」
「悪者の生徒会長をやっつけたんだってよ!」
物凄い期待値だ。ソニアの顔から血の気が引いていく。
「や、やっぱり、無理です……帰ります……」
「ご主人様よ、教師になるのではなかったのかい?」
「だって、期待が大きすぎるよ!」
「何事も経験さ」
「アナスタシアは他人事だからそんなこと言えるんだよ!」
ロネアはソニアが一人でフードへ話しかけていることを不思議そうに見ていたが、興味無く深く尋ねることはなかった。
「いいですか?天才魔術師ソニアさん、入りますよ」
「ま、待ってください!まだ心の準備が!」
ソニアの訴えも虚しく、教室の扉が開かれた。約三十人分の視線が、一斉にソニアへ向いた。先程までの騒がしさが嘘のように教室は静まり返っていた。それが、ソニアの緊張を高めた。鼓動が早くなるのが分かる。
目……いや、視線が突き刺さる。
憧憬、期待、興味、様々な感情を持った視線に晒される。ソニアは、思い出す。
そうだ、私、人前で話すの大の苦手だったんだ!
ソニアは、一切の思考が停止する。しかし、そんなことお構いなしにロネアが一喝する。
「君たち、時刻は過ぎています。席につきなさい!それでもログロースの生徒ですか!」
ロネアは、児童たちを見もせずに高圧的に児童に指示を出す。児童たちは、その怒声に急いで席に着き、姿勢を正した。
「では、どうぞ。ソニア」
「えぇ!何を言えば!?」
急なバトンタッチにソニアは盛大に取り乱す。
「何って、自己紹介でしょう?」
ロネアは不機嫌そうに、目も合わせずに答える。ソニアは、身なりを整えて気をつけの姿勢で元気よく話し出す。
「ソニア・エヴァークレストです!きょ、今日はよろしくお願いしましゅ!」
教室が、一瞬の静寂のあと、大きな笑いに包まれた。
噛んだ!
「噛んだ!」
「英雄なのに!」
ソニアは顔を真っ赤にして俯く。だが、その笑いは意地悪なものではなかった。少し前まで遠い存在だった「英雄」が、急に自分達と同じ、失敗もするただの人になった。教室の空気が、目に見えて柔らかくなる。
「ドラゴンってどうやって倒したの?」
「どんな魔術使ったの?」
「炎、見せて!」
「校舎を壊すくらいの魔術、見たい!」
質問攻めに、ソニアがおろおろしていると、ロネアが手を叩いた。
「いつ質問をしても良いと言ったのだ!静かにしなさい!」
明るい空気が、一瞬にして引いていく。
「いいですか、ソニア。ログロースは由緒ある学院。教師とは子供のお守りではないのだ、くれぐれもよろしく頼むよ」
「は、はい……」
ソニアは、縮こまってしまう。その後、ロネアは担任の欠勤などの連絡事項を伝えると、自分の学級へと帰っていった。
◇
その後、クラスの皆から簡単な自己紹介をしてもらい、普段通りの授業となった。午前の授業は数学と基礎魔術だった。頭の回転は人並みだが、努力家のソニアは学習には自信があった。しかも、数学といっても初等部のそれだ。ソニアは、具体物を示しながら授業を進めていく。
あれ、私、ちょっと先生っぽくない?
なんて、余裕が生まれた時に、ソニアは一人の少年に目を留めた。数学の問題に個々で取り組んでいる時だ。その子はちょっとしたひっかけ問題の数式に手が止まっていた。ソニアはその数式を確認しようと手元を見ると、その少年はさっと手で問題を隠した。
この子、確かレオンという子だったわね。
「レオン、分からないところがあるの?」
「………………」
レオンは、顔を伏せて何も答えない。ソニアが困っていると、隣の女の子がソニアに言う。
「レオンは勉強が苦手なのよ」
「そうなんだ。じゃあレオン、私にちょっと見せてみて」
ソニアがそのように言うが、レオンは頑なに突っ伏したまま見せようとしない。
こんな時、どうすればいいんだろう?
「ほっといた方がいいわ。そうなったら、先生はいつも無視しているもの」
「アナスタシア、どうしたらいい?」
「その子の言うとおりさ。ほっとくといい」
アナスタシアは、数学に全く興味がなく、フードの中なら顔も出さずに適当にあしらう。困りながらソニアはその後も時々レオンに声をかけるも、一切動こうとしなかった。
次の授業は2時間続きで、隣のロネア先生の学級と一緒に行う基礎魔術だ。子供たちは魔術杖を持ち、校庭へと飛び出していく。基礎魔術ではロネア先生がいるため、ソニアは補助の役割だった。基礎魔術は生活魔術とも呼ばれ、初等部の2年生辺りで修得していく。
「それでは、まずは魔術の基本、炎魔術に取り組んでもらう」
ロネアは、威圧感のある声で指示を出す。しかし、子供たちは慣れているようで、粛々と魔術陣を描いて詠唱を始める。ソニアは、レオンの方へと目をやった。他の生徒達が次々と初級炎魔術を成功させていく中、レオンだけは何度試しても魔術を発動させることができなかった。
「——小さき炎よ、我が前に灯れ。アインス・イグニス!」
魔術陣が僅かに光るが、炎は現れない。レオンは唇を噛み、もう一度杖を構える。
「アインス・イグニス!」
やはり何も起こらない。
「あの子は、魔力は他の子と同じだが、どうも魔力の流れをうまく掴めていないみたいだね」
魔術の授業は、アナスタシアはフードから顔を出して意欲的に観察している。
「そうなの?」
「ご主人様と同じさ。魔力の大小と魔力の流れを操るのは、似ているようで非なるものだね」
アナスタシアが悠長に語っていると、レオンの様子を見ていた近くの生徒達から笑い声が聞こえてくる。
「また出来てないじゃん」
「レオンって、一度も魔術を出せたことないんだぜ」
「貴族じゃないから仕方ないよ。家庭教師とかいなかったんだろ?」
「平民なのにログロースへ来るからだよ」
レオンは聞こえていないふりをして、もう一度杖を構える。
「アインス・イグニス!」
何も起こらない。
「レオン君」
ロネアが少年の元へ歩いていく。
「また魔術陣が乱れています。昨日も教えましたね」
「ご、ごめんなさい」
「全く、初級魔術だぞ。他の皆の進度もある。君は見学でもしていなさい」
「でも、先生……」
「他の生徒の授業が遅れると言っている!」
「……はい」
レオンは小さく答え、集団から離れていく。ソニアは、心配そうにレオンを見ていた。ロネアは「ふんっ」と吐き捨てると、生徒達に次の魔術の練習を始めるように指示する。レオンだけが膝の上へ杖を置き、俯いていた。
「我慢だ……」
聞こえはしなかったが、レオンはそう呟いたような気がした。
知ってる……私、あの顔。
ソニアは、その笑顔を知っていた。自分にはできないから仕方がない。周りに迷惑をかけるくらいなら、最初から諦めた方がいい。悔しくても、悲しくても、大丈夫だと自分に言い聞かせる、あの顔。以前のソニアも、何度もそうしてきたからだ。ソニアは無意識にレオンの元へ歩いていた。
「レオン君」
「あっ、すみません!見ていませんでした!」
レオンは自分が見学をせずに、下を向いていたことを咎められると思い謝る。
「違うよ。ねぇ、もう一度、一緒にやってみない?」
レオンは驚いて顔を上げる。
「で、でも……」
レオンは、自分の魔術杖を見つめる。
「ソニアさん」
ロネアがソニアを呼び止めた。
「レオン君には見学を指示しました」
「でも、レオンはまだ炎魔術を完成できていません」
「この子一人につきっきりになれば、私たち指導者が他の生徒を見ることができません」
「それなら、私がレオン君を見ます」
「あなたも指導者の一人です」
「ならば、レオンも生徒の一人です」
ロネアは苛立ったように眉を寄せる。
「ソニアさん。気持ちは分かります。しかし、魔術には才能があります。本人がどれだけ努力しても、難しいことはあるのです」
レオンの手が強く握りしめられるのを、ソニアは見つめる。
「僕は大丈夫です。先生の言う通り、見ています」
レオンは笑顔で言った。その笑顔を見た時、ソニアの胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「違います」
「え?」
ロネアとレオンが、同時にソニアを見る。言った後で、ソニア自身も驚いた。
相手は正式な教師で、自分は高等部に入ったばかりの生徒。しかもこの授業では、補助として参加しているだけだ。ロネア先生の考えも分かるし、そうしなければ授業が進まないことも分かる。それでも、このままレオンを一人で座らせておくことだけは、どうしても納得できなかった。
「レオンは、学ぶ権利があります。何より、レオンはまだできないなんて一言も言っていません。数学の時も、そうでした。レオンは助けを求めることは下手だけど、投げ出すことはなかったんです」
ソニアは、少し震える声で言った。
「ソニア先生……」
「ねっ、そうでしょう。レオン。あなた、諦めてないわよね?」
ソニアは、優しく語りかける。
「うん……諦めてなんか……ないよ」
ソニアは、ロネアに向く。
「人を笑うことを看過し、才能がないから置いていくのが指導なら、何のために授業をするんですか?」
「置いて行ってなどいない。今の実力に合った学び方をさせているのだ。他人の魔術を観察することも学習だろう」
「それなら、ロネア先生は見学させた後に、助言や指導をされたことはあるのですか?」
「それは……」
ロネアは言い返すことができなかった。魔術下手なソニアには、見学させられた経験は数えられないほどあった。しかし、対照的に見学の後に助言や指導を受けたことは一度もなかった。ソニアは両手を握った。
「私のことを指導者と仰っていただけるのなら、私はできる方法を一緒に探してあげる指導者になりたいんです」
「ご主人様……」
アナスタシアが、小さくソニアの名を呼んだ。ロネアはしばらく黙ってソニアを見ていたが、やがて静かに息を吐く。
「分かりました。そこまで言うのならば、あなたがレオン君を指導してください。」
「いいんですか?」
「ふんっ、実際にやってみれば良い。だがな、これだけは覚えておくといい。君がやっていることは、教員という役割を全く理解していないことを」
「はい!ありがとうございます!」
ソニアは勢いよく頭を下げると、レオンの隣へしゃがみ込んだ。
「一緒にやろう」
「でも、僕、ずっとできなくて……」
「大丈夫」
「でも……」
「私も一緒に考えるから」
レオンが笑顔で顔を上げる。ソニアには、その笑顔が今までの笑顔と違うことが分かった。ソニアの差し伸べた手を掴むレオンの手は温かかった。
魔術陣の書き方は知識でどうにかなる。だが、魔力の流れを整える詠唱が、ソニアはとにかく苦手だ。アナスタシアが言うように、レオンはソニアと同じく魔力の流れさえ整えられる詠唱言語の選別が必要だ。でも、それが全く分からない。
「うーん、どうしたものか……」
大口を叩いたのはいいが、ソニアはいきなり壁にぶつかる。ソニアは、今までアナスタシアやセラから受けた特訓を思い出す。アナスタシアはそもそも詠唱を必要としないため、直感的なアドバイスしか返ってこないだろう。
セラは、今この場にはいない。
ソニアは唇を噛んだ。誰にも聞けない。誰も答えをくれない。自分一人で、この子の前に立っている。
「レオン、もう一回やってみよう」
「……うん」
レオンは頷くと、杖を構え直す。ソニアはその手元をじっと見つめた。何か見落としている気がする。魔術陣は乱れていない。詠唱の言葉も、ちゃんと合っている。それなのに、何も起きない。
「——小さき炎よ、我が前に灯れ。アインス・イグニス」
やはり、何も現れない。
「またかよ」
少し離れた場所から、小さな囁き声が聞こえる。先程ソニアが止めたはずの空気が、ゆっくりと戻ってきている。誰も声を出して笑ってはいない。それでも、視線には隠しきれない苛立ちと諦めが滲んでいた。
レオンの肩が、びくりと動く。
ソニアはそれを見逃さなかった。
もう一度、詠唱の瞬間を見る。杖を構える時、レオンの肩には力が入っている。それだけではない。詠唱の直前、レオンは小さく息を止めていた。吸ったまま、吐かない。まるで、失敗する瞬間を、少しでも先延ばしにしようとするかのように。
これは——。
ソニアの中で、何かが繋がった。
魔力の流れでも、詠唱の技術でもない。
怖いんだ、この子。
できないことが、じゃない。できなかった時に、また笑われることが。
知ってる。私、その感覚。
ソニアの脳裏に、かつての自分がよぎる。杖を握る手に力を込めれば込めるほど、魔力は強く出ると思い込んでいた頃。詠唱を噛まないように、失敗しないようにと、身体中を強張らせていた頃。結果はいつも同じだった。何も起きないか、余計にひどい失敗をするか。
「レオン」
ソニアは、しゃがみ込んでレオンと目線を合わせた。
「一回、魔術のこと忘れよっか」
「……え?」
レオンが、戸惑った顔でソニアを見る。
「杖、下ろして」
「で、でも、時間が……」
「いいから」
ソニアは、レオンの手をそっと押さえた。杖の先が、床の方へ向く。
「ねぇ、レオン。今、何が一番怖い?」
レオンは、しばらく黙っていた。周りの視線を気にするように、ちらりと横を見る。
「……また、笑われることです」
絞り出すような声だった。
「うん」
ソニアは、静かに頷いた。
「私も、そうだったよ」
「え?」
「私、初等部の時、魔術が全然できなくて。杖を持つ手が震えるくらい、失敗するのが怖かった。それで、余計に力が入って、余計にできなくなって」
ソニアは、少しだけ笑った。
「だから、分かるよ。レオンが今、何を我慢してるか」
レオンの目が、揺れる。
「今日はもう、成功させなくていい」
「え……」
「当てようとしなくていい。外れても、失敗じゃないよ。ただ、杖の先を、ちょっとだけ温める。それだけを考えて」
教室の隅で、その様子を見ていたロネアが、腕時計に目をやった。残り時間は、あと僅かだった。
「ソニアさん、そろそろ——」
「あと少しだけ、お願いします」
ソニアは、振り返らずに答えた。声は震えていたが、目はレオンだけを見ていた。
レオンは、もう一度杖を構える。だが、先程までとは違う。肩の力が、僅かに抜けている。
「——小さき炎よ、我が前に灯れ」
息を止めない。ゆっくりと、吐きながら。
「アインス・イグニス」
杖の先が、一瞬、ぼんやりと赤く滲んだ。
「あ……」
レオンの声が、掠れる。
それは、まだ炎と呼べるほどのものではなかった。それでも、確かに何かが変わった。
「今の、見た?」
ソニアは、興奮を抑えきれずに言った。
「今、絶対、何か変わったよ!」
「ほ、本当に?」
「本当。だからもう一回、同じ気持ちでやってみて。当てなくていいから」
レオンは、震える手で杖を持ち直した。教室中の視線が、いつの間にか彼に集まっている。囁きも、笑いも、今は聞こえなかった。ただ、静かにその瞬間を待つ空気だけがあった。
「アインス・イグニス」
杖の先に、小さな——本当に小さな、豆粒ほどの炎が、ふわりと灯った。
誰も、何も言わなかった。数秒の沈黙のあと、レオンの目から、涙が零れ落ちた。
「……ついた」
「ついたよ、レオン!」
「レオン、すごいじゃん!」
先程まで囁いていた生徒達が、我先にと駆け寄ってくる。
「本当に、出来たんだ……」
「もう一回、見せてよ!」
レオンは、涙を拭うこともできないまま、何度も頷いた。周りを囲む声には、もう意地悪さは欠片も残っていなかった。
「あ、危ない!押さないで!」
ソニアが慌てて割って入る。子ども達に揉みくちゃにされながらも、レオンは笑っていた。今までのような、我慢するための笑顔ではなかった。
「……ふん」
少し離れた場所で、ロネアがその様子を見つめていた。腕を組んだまま、表情はいつもと変わらない。それでも、何も言わずにその光景を見続けていた。
「先生も、見てくれました?」
ソニアが顔を上げて尋ねると、ロネアは一瞬だけ視線を逸らした。
「授業の続きがある。皆、席に戻りなさい」
いつもと同じ、素っ気ない声だった。だが、その声には、僅かに掠れたものが混じっていたような気がした。ソニアの気のせいかもしれない。
「アナスタシア、見てた?」
ソニアは、フードの中に小さく囁く。
「ああ、見ていたとも」
アナスタシアの声は、いつになく静かだった。
「僕は魔力の流れは教えられても、あの子の心までは見えなかった。ご主人様の方が、よほど良い教師だよ」
「な、何よ急に」
ソニアは、照れ隠しに頬を掻いた。
鐘の音が、校舎に響く。基礎魔術の授業が終わる合図だった。
「はい、時間です。片付けて教室に戻りなさい」
ロネアの号令で、子ども達は散り散りに動き出す。レオンは自分の杖を、大事そうに両手で抱えていた。




