帝国がソニアを知った日
その日の夕方。
ヨシュアは、魔術封じの枷をつけられたまま、憲兵の護送馬車に乗せられていた。窓には鉄格子が取り付けられ、分厚いカーテンで覆われていて、外とは完全に隔離されていた。そして、四方を複数の憲兵が護衛している。ヨシュアは、馬車の中で俯いたまま両手を震わせていた。
「ソニア……」
小さく、その名を呟く。コレポルト家嫡男、ログロース学院生徒会長、全てを失ったその悔しさから、ヨシュアは恐ろしい形相を浮かべている。
「ソニア……必ず……必ず後悔させてやる」
ログロース学院を出てから数分ほど経ったのだろうか、太陽も落ちて徐々に暗闇が広がってきた頃、護送馬車が突然止まった。外から慌てふためく憲兵の声が聞こえる。
「どうした!」
返事はない。急に辺りの空気が凍ったような、寒さを覚える。ヨシュアは重いカーテンを開けると、馬車の周囲を濃い霧が包み込んでいた。
「くっ、寒い!何だ、この霧は!」
1歩先が視認できない程の濃霧で、霧のためか気温が急落している。
「前が見えない!」
「全員、馬車から離れるな!」
薄ら見える憲兵は携えている剣を構える。ヨシュアは、小さな窓からできる限り辺りを見渡す。
「冷たい……これは……魔術……?」
ヨシュアがそれに気づいたとき、目の前の憲兵が何者かに倒される。
霧で目視できない。一体何が起こって……。
そう思った直後、憲兵達の悲鳴が聞こえる。反対の窓からも外を探るが、小さな格子の窓からでは何が起こっているのかは分からない。
外が静かになる。
——————。
すると、1つの足音が聞こえる。
コッ、コッ、コッ。
「そこにいるのは、誰だ!」
得体の知れないものに、ヨシュアは問いかける。
——————返答は無かった。
ガチャリ。
その代わりに、馬車のドアの鍵が開く音がする。馬車のドアが、外側からゆっくりと開くと、そこには全身を黒い外套で隠した人物が立っていた。
「誰だ」
ヨシュアは警戒し、ドアの前に立つ人物を睨む。黒い外套の人物は何も答えず、ヨシュアへと近づく。ヨシュアは戦闘で消耗した魔力が回復していない上に、両手を魔術封じの枷で塞がれているために抗うことができない。しかし、その人物はヨシュアの両手に嵌められた枷へ手を伸ばすと血に濡れた鍵で開ける。
その人物の思わぬ行動に、ヨシュアはその意図を理解することができない。
「まさか、私を助けに来たのか?」
外套のフードを目深に被っているため気付かなかったが、背はヨシュアと同じくらいだった。ヨシュアは素顔を見ようと覗き込んだ。すると、その顔には異国の笑っているとも怒っているとも、泣いているとも見える気味の悪い仮面が付けられていた。
「お前にチャンスをやろう」
外套の人物は、性別さえ分からない気味の悪い声で答える。
「チャンスだと……」
「あのソニアという者。あの者は只者ではない」
ソニアという言葉に、ヨシュアは先刻の屈辱を思い出して唇を噛む。
「あのハンニバルを屠り、この私に怪我を負わせた……」
「何を言っている?」
ヨシュアの質問に答えず、仮面の人物は誰に言うでもなく続ける。
「そして、アル・ヘレナでは時魔術を調べていた……」
「おい、お前!何を訳の分からない事を!チャンスとは何だ!」
仮面の人物は、ヨシュアの方へと向く。
「お前にはまだ価値がある」
「ふざけるな!」
ヨシュアは自分を値踏みされたことに苛立ちを露わにし、思わず仮面の人物の肩を突く。ヨシュアは咄嗟に手を引き反撃に対して身構えるが、想像とは違い仮面の人物は押されるがままに馬車の外へと倒れ込んでいく。想定外の出来事に、ヨシュアは周囲を警戒しながら馬車の外へ顔を出す。すると、そこには目を疑う光景があった。
「なっ……何だ、そのモンスターは……」
仮面の人物は馬車の外へ倒れ込むことなく、白く巨大な狼に支えられていた。狼の白い体毛は煙のようにゆらめき、その身体の周囲には雪の結晶が舞っている。優雅ささえ感じさせる体躯とは対照的に、その口元からは夥しい量の血が滴っていた。おそらく、憲兵達のものだろう。このモンスターが凍えるような霧を生み出し、憲兵達を襲ったに違いない。エルドブリッジ王国にも凶悪なモンスターは数多く生息している。しかし、ヨシュアはこのようなモンスターを見たことも、聞いたこともなかった。
「カリアハ……召喚獣だよ」
仮面の人物の頭からフードが外れ、後ろで一つに纏められた銀色の長い髪が現れた。
「召喚獣……」
仮面の人物は、ゆっくりとカリアハと呼ばれた狼から降りると静かに話し出す。
「我々の国へ来るならば、お前にもう一度、力を得る機会を与えよう」
「我々の国……?」
仮面の人物がカリアハを撫でると、霧が一瞬にして晴れる。先程からの身震いする寒さも無くなった。周囲はすでに夜の帳が下り、街灯の明かりだけがゆらゆらとヨシュアを照らしている。仮面の人物が外套を広げると、そこにはヨシュアも知っている紋章が織られていた。
「ロロノア帝国…………」
エルドブリッジ王国と敵対する大国。この世界で唯一「帝国」を名乗り、ここ100年で5つの小国を滅ぼして国力を拡大してきた国。ロロノア帝国の紋章だった。
「私を利用するつもりか」
「価値があるだけ十分だろう?」
ヨシュアは鋭い目を向けるが、仮面の人物の前にカリアハが守るように立ちはだかる。遠くから人の声が近づいてくる。この状況を目撃されるのは、双方にとって喜ばしいことではない。ヨシュアは、気味の悪い仮面を見つめる。
ログロース学院も、家族も、自分を見捨てた。このまま憲兵へ引き渡されれば、コレポルト家からも切り捨てられるだろう。ならば、もう守るべきものなど何もない。あいつの命さえ奪えれば、何でもいい!
「分かった。私はロロノア帝国へ行く」
光の加減だろうか、仮面は笑ったように見えた。
「カリアハ、この者を国境まで連れて行け」
命令を受けたカリアハが吠えると、辺りは再び濃霧に包まれる。駆けつけた者達が、倒れている憲兵達に気づいた頃には、霧はすでに晴れていた。護送馬車の中に、ヨシュアの姿はなかった。
その夜、護送中だったヨシュア・コレポルトが、何者かの襲撃によって連れ去られたとの一報が王宮を騒がせた。当初は敵国による拉致と思われていた。しかしその後、霧の中で辛うじて意識を保っていた憲兵の一人が、息を引き取る寸前に衝撃的な証言を残した。ヨシュアは連れ去られたのではない。自らロロノア帝国へ渡ることを選んだのだという。
そして数日後。
ヨシュアがロロノア帝国へ亡命したとの情報が王都を駆け巡り、ログロース学院にも届いた。三公爵家コレポルトの嫡男。ログロース学院生徒会長。将来を嘱望されていた若き天才。その全てを捨てて敵国へ渡った事実は、多くの人々に衝撃を与えた。その報せを最も重く受け止めたのは、王国中枢だった。何故なら、ヨシュアは王国の内情を知りすぎているからだ。エルドブリッジの騎士団の構成と力量、王都の防衛、貴族達の力関係。それら全てが、ロロノア帝国へ渡ったことを意味していた。
だが、王国が失ったものは情報だけではなかった。この日、ロロノア帝国は初めて知った。
エルドブリッジ王国に、ソニア・エヴァークレストという規格外の魔術師がいることを。




