こころ(作:二階堂 玲)
(部長の一ノ瀬が、三田村のSF解釈によって魂を抜き取られたように机に突っ伏している。その背中を、副部長の二階堂が、やれやれと見つめていた)
二階堂「……部長はしばらくあのままにしておきましょう。では、次は私の番ね」
(二階堂は、静かにノートパソコンを開いた。その仕草だけで、カオスだった部室の空気が、ぴんと張り詰める)
四方田「副部長の『こころ』! ミステリーですよね! Kを殺した犯人は、やっぱり先生なんですか!?」
二階堂「ふふ。面白い質問ね、四方田さん。私の『こころ』は、感傷的な悲劇でも、観測ログでもない。一人の人間が、もう一人の人間を、知性だけで殺す、完全犯罪の計画書。そして……この手紙自体が、凶器となる物語よ」
一ノ瀬「(……手紙が、凶器……?)」
(机の下から、か細い声が聞こえる。二階堂は、その声に不敵な笑みを返すと、淡々と、しかし有無を言わさぬ力強さで、テキストを読み始めた)
***
こころ
作:二階堂 玲
君へ。
君が、この手紙を手に取った。その事実が、君の運命を決定づけた。君は知りすぎてしまったのだ。だから、君に私の全てを話そう。私の罪の、そして、君の死の真相を。
君は、私がなぜKの墓参りを欠かさないのか、さぞ不思議に思っていただろう。あれは懺悔のためではない。私の完璧な芸術品を定期的に鑑賞しに行っているに過ぎないのだ。そう、Kは自殺したのではない。私が殺したのだ。
動機は君の想像通り、お嬢さん――今の妻だ。だが、単純な恋敵への嫉妬ではない。Kは私の本質を見抜いていた。私が、愛という仮面を被り、妻の実家の財産と社会的地位を狡猾に手に入れようとしている、ただのエゴイストであるということを。彼はそれをお嬢さんに告げ口するつもりだった。私の計画を根底から破壊するために。だから、私は彼を排除する必要があったのだ。
問題は、方法だ。どうすれば、他殺の痕跡を一切残さず、彼を『自殺』させることができるか。私は、ある特殊な二種混合型の毒薬を用いることにした。
第一の毒は、それ自体に毒性はない。無味無臭の、ただの粉末だ。私はそれを、Kが愛用していた舶来の紅茶の缶に、こっそりと混ぜておいた。彼は毎晩それを飲んで、勉学に励んでいたからな。
問題は第二の毒、すなわち、第一の毒を活性化させる『触媒』だ。これをどう彼に摂取させるか。私は、ある極めて美しいトリックを考案した。
私はKに一冊の古い洋書を贈った。装丁の美しい貴重な学術書だ。彼はたいそう喜んでそれを受け取った。彼は知る由もなかっただろう。その本の全てのページに、第二の毒である揮発性の液体が、極めて薄く染み込ませてあることを。
その液体は、空気に触れるだけでは無害だ。だが、第一の毒を体内に蓄積した人間がその本のページをめくる時、指先の僅かな湿気と体温に反応し、致死性の神経ガスをごく微量ずつ発生させるのだ。
Kはその夜、私が贈った本を夢中で読み耽っていた。彼は、自分の指先から自らの死を招く毒ガスが発生していることなど、露ほども知らずに。やがて、彼は軽い眩暈と手足の痺れを覚えたことだろう。風邪の初期症状か、あるいは、勉学の疲れだとでも思ったかもしれないな。
数時間後、彼の部屋を訪れた私は、机に突っ伏し、息絶えている彼を発見した。私は彼の遺体をベッドに運んだ。そして、あの遺書を私が代筆した。死後に毒を検死で見抜くことは不可能だ。完璧なトリックが完成した。
さて、君は賢い読者だ。もうお気づきだろうか。君の、その手に、今、何が握られているかを。
そう、この私が君に宛てて書いた長大な手紙。この便箋にこそ、あの洋書と同じ、第二の毒がたっぷりと染み込ませてあるのだ。
君は覚えているかね。数ヶ月前、私が君に美しいガラスペンを贈ったのを。君はそれをとても気に入ってくれた。あのペン軸には、わずかながら第一の毒の粉末が仕込んであったのだよ。君が、あのガラスペンを使うたびに、インクをつけ、文字を追う、その指先に僅かな毒が付着することを、私は計算していた。
どうだね、君。少し部屋の空気が甘ったるく感じないかね。それは毒が気化している香りだ。指先が少し冷たくなってはいないかね。それは、神経毒が君の身体を蝕み始めている証拠だよ。
私がなぜこんなことをするのか。君は私にとって息子のような存在だった。だが、君はあまりにKに似すぎていた。君の、あの探るような瞳は、いずれ必ず、私の罪の真相にたどり着く。私の、この美しい犯罪の記録を他人に汚されるのは、我慢がならない。幕を引くのは、この私自身でなければならないのだ。
安心してくれたまえ。私も、すぐに君の元へ行く。君という最高の観客を道連れにできるのだ。これ以上の幸福はない。
この手紙が、君の冷たくなった手から落ちる頃には、私も、もうこの世にはいないだろう。そして君は、とっくに死んでいるだろう。
***
(二階堂、読み終え、満足げにノートパソコンを閉じた。部室は、恐怖と、そして、ある種の感嘆がない混ぜになった、異様な沈黙に支配されていた)
四方田「ひ……ひどい……! ひどすぎます副部長! 先生がKを殺しただけじゃなくて、それを読んでいる『私』くんまで殺すなんて! しかも、手紙で! そんなのって……エモさのかけらもない、ただのサイコパスじゃないですか! 後味が悪すぎます!」
三田村「……なるほど。情報を伝達する媒体そのものを、物理的な攻撃手段として利用する。遅効性の二種混合型化学兵器。論理の破綻は、ありません。……しかし、これは、あまりにも古典的で、想像力の欠如した手法です。もっと、エレガントな方法があったはずです。例えば、手紙に印刷された特定の幾何学模様が、サブリミナル効果で脳幹を直接攻撃するとか……」
一ノ瀬「……玲! あなたは……! あの、日本文学の金字塔である『こころ』を、なんと、陰湿で、悪趣味な、メタ構造のミステリーに……! しかも、読後感が最悪じゃないの! これじゃあ、誰も救われないわ! 文学は、人を殺すための道具ではないのよ!」
(三者三様の、しかし、その全員が、戦慄を隠せない、という点では一致した反応であった)




