彫刻刀
僕は最初から死んでいなかった 彼女は最初から死んでいなかった
真っ白い部屋の中で一人佇む女の子。 その手には真新しい彫刻刀が握られていた。 彫刻をするために握られているわけではない、正当防衛だと言えば聞こえは良いのだが、彼女は自分の手首に刃先を当て鮮血を流し続けていた。 手首に傷が入るたび溢れ出る血液の色は真っ赤でその赤を失い続けている彼女の顔色は真っ白だった。 目的はおそらく一つ、自分を守るために自分を傷つけている。
人が死ぬために生きるのと同じ。 人が生きるために死ぬのと同じ。
長い尻尾をゆらりとしなやかに動かしながら僕は彼女に近づいていった。まだ彼女は僕の存在に気がついていない。
しなやかに動きながら四本足でスキップをしながら甘い甘い匂いの元に急ぎ足で近づく。生きたまま口に入れて咀嚼して喉の渇きを潤したい。どうやら僕は飢えているようだ。
白い部屋に存在していることが不自然すぎる黒い生き物、黒豹それが僕だ。
僕は女の子の姿を見た。 女の子も僕を見た。 彼女は僕を眺めうっとりとしながら言葉を紡ぐ。
「綺麗だね…黒猫さん…」
彼女の言葉が空気を振動させ音を作り僕のそばまで届けた。 もちろん僕は彼女の発した言葉は理解できたが黒猫さんが誰なのかは残念ながら理解し得なかった。
「むむ…黒猫…?どこにいるんだ? この空間には君と僕以外存在していない。 君は僕を認識した。 僕は君を認識した。 黒猫なんて存在しないよ。」
黒猫は存在しない。 そもそも僕は黒豹であって、黒猫ではないのだからそれは正しい。黒猫なんていない。 ここにいるのは黒豹だ。 流暢な日本語で言葉を紡ぐ僕に驚くこともせず。 女の子は自分から滴り落ちる血液を気にもせず。 自分の言葉の返事が返ってきた事に戸惑っているみたいだった。静かに目の前の僕を瞳の中に映し込んでる。
「黒猫さん…あなたは黒猫さんじゃないの?」
彼女の言葉を理解した。僕は黒猫と間違えられている。僕を黒猫なんかと間違えるだなんて、なんて失礼極まりない。耳をヒクヒクさせながら、しっぽを大きく揺らして彼女に近づく。
「僕は猫じゃない、豹だ。 黒豹。 ブラックパンサー。 とっても良い匂いがする君は誰?」
ふにゃりっと笑う僕。 口元には笑うとどうしても隠し切れない鋭い牙。
「こんにちは黒豹さん。 私は…アヤ。」
言葉にするのは簡単すぎる自己紹介だった。 彼女はアヤだ。 それ以外の何者でもない。 僕とは違う。黒猫になんか間違えられないくらいにアヤはアヤだった。
「アヤ…。 とっても良い匂いがするんだけど… 自分で死んじゃうなら僕が食べて良い? 僕がアヤが死んだ理由になってあげる。」




