月
僕は肉球のついたふわふわした前足をアヤの肩にかけ二本足で立ち上がると顔に鼻先を近づける。
「ありがとう。」
アヤはお礼を言いながら僕に向かって微笑んだ。その表情を見た僕はおかしくなった。体中に血液を流し込む臓器に不具合が生じたんだと思う。ドクリ、、ドクリ、、ドクリ自分の中身の音が聞こえる。僕は毎日同じ僕なのに中から音が聞こえたのは初めてだ。初めて聞いたその音は心地良い重低音だった。
今まで僕が喰った者は僕に微笑んだりしなかった。悲壮な表情で何故どうしてと無意味な疑問を投げかけ、憎悪に取り付かれ、色を無くした瞳で僕を睨む。それに慣れてしまった僕は自分が生きるために喰った。
飢えている僕。体の不具合。心の痛み。 ひと思いにアヤの首筋に牙を突き立てていつものように空腹を満たせば良いのに。 この音を聞きながら「月が綺麗ですね」って月を見上げたらアヤは笑ってくれるかなって思いを馳せた。あいにくここは室内なので月を見上げる事が出来なくて残念だ。
僕は、黒豹の僕は、アヤを見た。
自傷行為で傷が付きすぎたアヤの左腕は一部肌色を取り戻せないくらい色褪せてしまっている。
外傷に痛み感じ取る事も無い。
痛い事を痛いと認識しない。 傷が痛いのに痛いと認識しない。 心も痛いのに痛いと認識しない。 ここに居たいのに居たいと認識しない。 自ら命を絶とうと彫刻刀を握っていたアヤ。
不思議だった。僕は今まで生きる意味について何度も何度も考えてきた。僕以外を殺してまで生きる意味を。 存在する理由。 存在しない理由。
生きる意味を考える僕は 同時に 死ぬ意味も考えていた。
考えた瞬間、自分の都合の悪い方だけ思考を放棄した。
思考を止めて切り捨てた。自己防衛のために。 よくわからないけど、とりあえず僕は死んだりしたくない。
あまりにも僕が間近にいるせいでピントが合わないからなのか、溢れ出て滴り落ちた赤に眼球から溢れた透明も混ざり込もうとした。 しかし溢れ出した透明の涙は、僕によって文字通り舐めとられた。 つるりとした眼球にざらりとした舌を這わせる。 じゅるり… 耳障りな音がアヤの瞬きを遮るように響く。 飴玉を舐めとるのとは違い花の蜜を奪い取るように。 僕は甘い甘い香りのするアヤを一生懸命舐めとった。 アヤの目から溢れ出た涙。何度も何度も何度も流れ落ちる前に僕は眼球ごと涙を舐めとり、たまに頬も舐めた。甘い、アヤは甘い。 僕は食事と称して涙を舐めとりながらアヤのそばにいた。 本当は飢えていた。涙を舐めとった暖かな頬に牙を立てて食らいつきたいくらいだった。でも僕にはそれが出来なかった。
「アヤ。僕を見て。」
僕は少しアヤの顔から離れてまっすぐアヤを見る。 僕に舐め取られない涙がじゅわりと揺れている。
「アヤ。そこから何が見える?」
「黒豹さんが見える。」
今にも溢れ落ちそうな甘い涙が眼球を覆う。
「奇遇だね。僕にも僕が見える。アヤから見える僕は何してる?」
僕はアヤの眼球の中の困った顔をした自分と眼を合わせた。
「困ってる。」
「原因わかる?」
「わからない」
「僕にはわかるんだ。水浸しで溺れそうになってる。僕は泳げないんだ。」
にっこり笑う。アヤが僕を見て笑う。その瞬間、ゆっくりと頬を流れていった涙に舌を這わせる。やっぱり甘い。
「怖かったよね…ごめん。僕は黒豹だけど肉は食べないんだ。アヤの涙は甘くて美味しい。 こんなに美味しい食べ物知らなかった。」
その言葉は、思わず噛み殺して全て丸ごと食べてしましいたいくらい良い匂いのアヤを生かそうとした真っ黒な僕の白々しい嘘だった。
ふにゃりと笑いながらもう一度アヤの眼球を舐めた。 そのまま口元に舌を移動させ唇も舐めた。 僕は名残惜しい甘い匂いのアヤの肩から前足を下ろし四本足で立った。
「最初は甘い匂いに惹かれた。そしてアヤの顔を見た。僕はアヤを認識した。アヤも僕を認識した。僕はアヤと出逢った。僕はアヤと一緒にいたいって思ったんだ。僕と一緒にいてよ。嫌かな?」
アヤは僕と向かい合わせのまま頬を赤くした。 僕が紡いだ言葉はアヤが今まで誰かから貰いたかった言葉だ。 アヤが誰よりも渇望していた言葉。 アヤが誰よりも諦めていた言葉。
言葉ではお腹はいっぱいにはならないし。 言葉では気持ちを全て伝える事は出来ないし。 言葉は嘘の集まりでも本当の集まりでも結局言葉の集まりでしかない。 それでも僕は言葉をアヤに伝えた。 出会ってから嘘も本当もアヤに伝えた。 どれが僕の本当なのかわからないように。 食べてしまいたいと思う僕と一緒にいたいと思う僕が同時に存在したから。 どっちも本当でどっちも嘘だから。 僕が何を望んでいるのか自分でも分からなくなってしまったから。 僕の言葉の中からアヤが本当にしたい言葉だけ受け取ってもらえれるように。 僕は本当に人任せの嘘つきだ。
「ねぇ黒豹さん… 黒豹さんは名前何って言うの?」
僕はまたふにゃりと笑う。
「僕の名前は氷室だ。」
「氷室…? いや…氷室君!! 私、黒豹さんを氷室君って呼ぶね。氷室君。私のそばにいて。一緒にいて。」
「ありがとう。 僕を飢え死にさせたくなかったら、僕の知らない所で泣いちゃダメだよ。でも僕の知ってる所で泣きすぎたら僕溺れちゃうからあんまり泣きすぎちゃダメだよ。」
つい先ほど生きていく事を放棄して自ら死んでしまうつもりだったアヤはうなずいた。
僕の側を離れないように 僕を飢え死にさせないように。 僕をアヤの涙で溺れさせないように。
アヤの左腕には痛々しい傷が存在したままだった。 長い時間だらりと流れ続けた赤は乾きそうになっている。 僕は目眩を感じながらアヤ左腕に顔を近づけ赤を口に含んだ。 含んだ瞬間、目眩が増した、こんなに甘ったるい血液初めて口にした。でも、そのまま飲み込んでしまったら何もかも終わってしまう気がした。
アヤが生きていく事が出来なくなってしまうから僕は飢えていたのに吐き出した。
「…美味しくない。 この赤色僕は嫌いだ。」
僕は困った表情を張り付けたまま、また嘘をついた。
アヤの後ろには鏡がありそこに写った僕の口元には鋭い牙の白色とアヤの赤色。鏡の中の僕の眼球は不思議な色をして輝いていた。
「僕が嫌いな赤色…もう流さないで…お願い…こんなに深く抉れて痛いでしょ…アヤが痛いと僕は悲しい。だからもうけがしちゃダメだよ。」
その言葉は、本当は、噛み殺して全て丸ごと食べて自分の血肉にしてしまいたいアヤのそばに居たいと願った僕の最初のわがままだった。 耳としっぽをへにゃりと下げて僕はアヤのためではなく僕が悲しいから赤色を流すなと懇願した。
「ありがとう。氷室君。」
アヤはそのままふんわりと意識を失った。 僕は驚いてアヤを抱き止める。青白いアヤの顔をゆっくり眺める。
アヤと黒豹の僕との出逢い。
僕は、美味しそうで食べてしまうのがもったいないくらいアヤの側にいたいと願った。
アヤは、渇望していた言葉をくれた僕を失望させたくなかったから自分が生きていく事を願った。
目が合った瞬間に恋に落ちるような、目を開けた瞬間に夢からさめるような、そんな出逢いだった。
僕は答えを見つけるために美味しそうな僕以外を喰らうのを初めて我慢した。
アヤが僕に微笑んだ瞬間、答えを見つけられる気がしたから。




