二 みちのくえみし
とはいえ、平安時代の東北、九世紀や十世紀の東北について、知ることなどほとんどない。元慶二年(八七八)に蝦夷の乱を鎮圧するために京都からきよはらのよしもち(清原令望、正六位上)が赴任した。この乱を鎮圧し、出羽ゴンノジョウ(権掾)のちに太宰少弐となり、防衛政策に提言する。
彼が、秦豊成娘を迎え、出羽清原氏の祖となる。
東北でも秦氏は健在である。
東北は兎角反乱が多い。これは、まず遠隔で中央の統制がいきとどかない、そして
「やませ」という冷風が吹くことで米作の適地ともいいがたいーーこれに相反して、自然は豊かであり、狩猟採集社会が根強く残る下地になる。
あとは、王化の外側と言うことで、赴任した官人による暴慢も多かったのだろう。[狩猟採集文化の平均労働時間は一日四時間ほどだという。これが古代的な農耕となれば、二倍にも三倍にもなるだろう]
平安時代の東北経営は、兎角、反乱、反乱であり、それを鎮圧するこころみ、城柵の設置である。その合間合間に、叙爵や公民化があり、行政区画が刷新され、新たな郡が置かれる。
意外なのは、平安時代よりも前の方が、東北を経営しようという意志が見て取れることだ。遠隔地からの調庸物を都まで運ぶのが大変で、生業をさまたげられる。すると、奥州から徴収した物資は、むしろ東北内で必要物に当てるようになり、一方で、交易によって、昆布、毛皮、砂金、馬、鷹といった豊富な商品を都に流通させる仕組みを整えた。
おや、だ。
商人、というのは、渡来人の得意な分野なのだ。まだ商人という言葉さえなかったであろう時代の交易に、あるいは官、あるいは現場の人間として、秦氏や他の氏族も参加していたのではないか。
東北の産物で、奈良朝が目の色を変えたのは砂金だが、これを精錬し、都へ流通させたのは、陸奥守・くだらのこにきしキョウフク(百済王敬福)の一族である。
人と物の移動、ということでは、サクコ(柵戸)という屯田兵を、関東や信濃、北陸から集めた。彼らはそのま東北へ移住したというから、移民である。
あんがいに、人と物の移動がある。
それに乗じて、開発と交易目的の渡来人が東北に食指をのばしたのは想像に難くない。
もともと東北は、古墳や遺跡を見る限り、関東と遜色ないlevelの文明を築いていた。王化の進行にも、さほど抵抗はなかったが、前述の諸条件が祟って、開化は関東よりも停滞した。
要するに、より濃厚に、古代日本の相貌を留めている人々がいた。
人口の移動、という観点では、びっくりするほどろくでもない言葉だが
「フシュウ(俘囚)」
という制度がある。これは、蝦夷を鎮圧した際、中央の指示で強制移住させるもので、全国各地、九州にまで移らされた。
しかし、隣り合う地域であり、関東への移住がもっとも多かっただろう。七世紀から九世紀までつづいた。
彼らの文化が流入することで、より原始的、というと違うが、自然的、狩猟採集社会的な風致が、濃厚に関東に遺った。もちろん、騎馬を用いた戦闘法もだ。
そこに、秦氏を始めとする渡来人の遺伝子ーー情報子が及んだとすれば、
坂東武者とか、
あづまえびすとか呼ばれる人種につづく、雛形が生まれそうに思えるのだ。
こんなもの、DNA を検査したところでなにが分かるわけでもなく、実証するのは難しいわけだが
秦氏が、後の関東武士団につながっていった、八幡信仰を掲げる戦士階級になっていった、というよりも、
そこに、あづまえびすのみならず、
みちのくえみし(陸奥蝦夷)
とでもいうべき人々の遺伝子も入り、結果として、七世紀もの間日本国の運営を担当した階級「武士」が発足した
ミッシングリンクはみちのくえみしだった、というふうにかんがえると、作者の頭の中では、整合性がとれるのである。




