三 生理
秦氏の盛大を、帰納的にかんがえるのもよくない。ーー確かに彼らは大勢力だった。
『秦 ハタ、ハダ
天下の大姓にして、其の氏人の多き事、殆んど他に比なく、その分支の氏族も亦少なからず。
而して上代より今に至る迄、各時代共、恒に相當の勢力を有する事も、他に類例なかるべし。
猶ほ後述の如く此の氏は韓土より渡来の氏と傳へらるゝも、
後世皇別、神別の波多、八多等の氏が、反つて秦氏と称するも、
此の氏の偉大なるを語る一資料たるべし。以下各條参照。』
氏姓研究のBibleといってもいい太田亮氏の『姓氏家系大辞典』ハタの項だ。
たしかに、神別姓にも、皇別姓にも、ハタ音の氏姓が散見される。
その実力は、りんりん、古代宮廷から鳴り響いていた、ということだ。
しかし、一方で、彼らが朝廷では大した位階をもらえていない、労働者集団だったのも争えない事実だ。はたのかわかつ(秦河勝)はたのおおつち(秦大津父)はたのさけのきみ(秦酒公)・・娘が藤原種継母のはたのあさもと(秦朝元)ーー
妙に印象的で、実力ありげなポジションを占めているものの、官位は高くない。秦朝元が、やっとで外従五位上「外」とはなんだという話だが、これは、貴族や官人に与えられる「内位」に対して、「外位」は、地方豪族、農民、蝦夷や隼人から、在庁官人に登用されたものに与えられる。正五位上が外位の最高位だから、秦朝元はかなり上り詰めていたが、そもそも外位は、内位をもち中央から派遣された国司に使役される身分なのだ。
秦氏のなにたるかをよく物語っている。
例外は、聖徳太子のかたわらで栄達した秦河勝くらいだろう。特徴的なのは、おおつち(大津父)もさけのきみ(酒公)も、天皇に仕えることで「伴造」とものみやつこに任じられていた、ということだ。これは、中央にいながら、氏族を統括するもののことで、朝廷のお墨付きをもらうことで、秦氏は一族を統括していた、そういう事情が見えてくる。
秦氏が、後の武士にスライドする。
その時、征夷大将軍に任じられることで、全国の武士を統括する地位に就いた。この生理をかんがえあわせてもよい。
彼らの官位は、対外的なものではなく、対内的な栄冠なのだ。
あづまえびす、みちのくえみし、そして秦氏ーー渡来人。
これらの文化と勢力が入り混じることで、東国武士団が発生した。
この物語の時点では、関東は奈良や長岡になびいているが、東北はまだ不穏で、その反骨が、武士たちにも遺伝したとかんがえていい。
武士たちは、朝廷を重んじながら、よほどの大大名でない限り、殿上人に連ならず、よって公家化しなかった。
この硬骨は、坂東の風でも、秦氏の野党性でもいいが、同時に東北の土性骨とみるべきだろう。中央を奉じるが、無闇と綺羅を着て舞い上がるところが少ない、陸奥の風致が、抜きがたく武士を形成しているのだ。
鎌倉時代になると、承久の乱を経て、ようよう、関東の独立は勝ち取られた。
それで、全国の四分ほどを、武士が治めるようになったのではないか。まだ、半ば以上は朝廷のものだったとかんがえていい。
実力のあるもの、軍事力を握るものが、そのまま権力者になれる時代ではない。
武士の気骨を形成したのは、渡来人と関東と東北だ。しかし、日本人の国民性そのものを形成したのは、おそらく、水蒸気だろうとかんがえている。この水蒸気という、目に見えない、だが、確かに存在するもので、感覚的に、日本人は、行住坐臥、全員が、同じ水面に浸かっているのだ。暗黙の了解というものが、巨大な存在感を印す。
自分にはその実力があるから、相応しい地位に上り詰めてしまえ、というのは合理主義だが、その精神が、この暗黙の了解を打倒するのが、よほど遅れた。
元寇を経て、南北朝時代に入る頃、ようやくで、武士の版図は、全国の六分から七分、いや六分よりだっただろう、その程度に達した。
まだまだ権威と宗教の時代だった。
南北朝の乱が始まり、
足利尊氏が、おのれを将軍にしてくれる北朝を建てる。
かと思えば、南朝の巻き返しに遭い、おのれが建てた北朝を廃止することで、南朝と和睦した。
その後南朝に裏切られ、これを降服させ、改めて、おのれが征夷大将軍になるために北朝を建てた。
これでもう、武士の都合で建てられたり廃されたりする朝廷の立場が浮き彫りになり、依然荘園や寺社領が散在するものの、日本の中枢は武家が占め、朝廷はその背後に君臨する体制になる。
それでも、まだまだ、朝廷と天皇、公家の勢力は根強く、武家はこれを無視することはできなかった。
彼らが権力を握っているのは、朝廷のお墨付きがあるからこそだ。
なにやら「外位」である。




