六 営々
だが、彼らが本格的な分裂と分散を迎えるのは、ここからだ。すでに、複数の豪族と日朝の連合体になっているが、それでも中央で、とものみやつこ(伴造)に率いられている。
これが、関東に進出する、東北にも出る。
いや、じつは、すでに、秦氏は東国にも手を打っている。
現在の埼玉県熊谷市と深谷市にまたがる地域に「幡羅郡」という秦氏が入植した地域がある。
成立は七世紀、これは北武蔵で最大級の郡だ。
この後、東京都渋谷区幡ヶ谷、神奈川県秦野市、埼玉県熊谷市原郷、千葉県千葉市畑町・・これらに分散していく。これらは、運良く残った方だ。平安時代の地名など、ほとんど消滅する。
横浜市周辺にあった「幡屋郷」埼玉県大里郡にあった「幡々郷」・・
これらに分散し、さらに、あづまえびすとみちのくえみしに交雑して、その指揮権や影響力は、千々に拡散した。
もう輪郭など霧散してしまっている。
「日既に山の端にかかれば、夜座しずか(静)に月を待ては影を伴ひ、あかり(燈)を取てはモウリョウ(罔両)に是非をこらす」
ぬえのように、例えば、八田(ハッタはハタの転化)あるいは羽田、あるいは三浦、二階堂、和田・・
そういった、全く別の氏姓に変わってしまっている。猿の顔、虎の足、狸の胴、蛇の尾・・だ。
それでいて、ちゃんとはたは健在なのだから、たまらない。
八百十五年に編まれた『新撰姓氏録』しんせんしょうじろくは、血族名鑑だが、そこには「皇別(皇族)」「神別(記紀神話の神々が由緒の氏族)」「蕃別(渡来人氏族)」「未定雑姓(不明)」がある。全一一八二氏。
そのうち「蕃別」は三二六氏。
三分の一近くが、渡来人姓だったのだ。
それが、鎌倉時代に入る頃には、ほとんど消滅してしまっている。国内は源平藤橘が占めるようになる。
そんなことがあるはずがないのだ。
人は消えない。
全体の三分の一近くは、ごくありふれた日本人の姓になって、そのまま帰化して、日本人になっただけなのだ。
拡散して、しかし、いる。
あづまえびすと、みちのくえみしの狭間に、息づいている。
武家の伸長にともなって、全国に遍在している。
もはや、もののけ(気)よりも、かすかであろう。
不定で、全般で、あまたの姿を取る、得体の知れぬ、わけの分からぬなにものか。
日本人の背後にいる「総体」
それが、ひょうすべである。
拡散しきって、もう、八幡神の威名をもってしても、輪郭を取り戻すことのできない由緒・・しかし、作者としては、みちのくえみしの古俗と縄文的宗教心をもってながめると八幡神に、兵頭蚩尤の牛頭六臂の肖像を垣間見れるような気もする。これまで、八幡神といっても、社殿や境内、鳥居のようなものしか思い浮かばなかったから、これは収穫だ。 [そもそも、あづまえびすだけでは、渡来人が先進性を掲げて習合した時、ひとたまりもなく渡来人になびき、もっと秦氏の、大陸的要素を濃厚にたたえそうに思えるのだ。みちのくえみしが踏ん張ってくれているからこそ、日本独自の風趣が武士にたたえられている]
「われらは、ヤマトに尽くしたーー彼らも報いてくれたが、なに」
八幡司が言う。
「この豊麗な水気と、広やかな山野、尽きせぬ山林・・それらに恵まれた天地、この楽園ほどは、報いてはくれなんだな」
加羅(朝鮮)など、徐福も話に聞いただけだが、ずいぶんと、はげ山が多く、乾いた空気の土地らしい。
「川筋を制し、野を拓き、鉄を作る」
にま、と、木彫りの面の双眸が、弧を描く。
「こよなき日々よ・・鉄が、大地をうがつ、土木を施してゆける」
息吹は、少々長かった。
「そうした日々は、終わった」
班田収授法。
公地公民の原則。
すべての土地は、みかど(朝廷)のものだ。
(なんとも、尋常だな)
徐福は思う。
ずいぶん、働き者ではないか。土地を耕し、川から水を引き、それで稲田を作る。草を抜き、炎暑に灼かれ、秋となれば、重たく穂を垂らす稲を収穫する。
それだけで、祭祀と、祖先崇拝と、人の一生が完結する。
このmodelを作ったのも、秦氏の功績だろう。水田耕作は、渡来人がもたらした文化だ。 農民の人生の典型を作るのに、彼らはずいぶんと貢献した。




