七 海
その背景には、圧倒的な国際色があるのだから、歴史はダイナミックだ。
八幡神、
その祭神である神功皇后、応神天皇母子、
そして、海北道中(北九州─朝鮮半島の海上ルート)の守護神である姫大神(宗像三女神)
彼ら彼女らの既往が、渡来人を日本へ呼び込んだーー少なくとも、その流れを加速させた。
八幡神の主神である応神天皇は、自身が騎馬民族の王ではなかったのかという説があるほど、濃厚に渡来人との縁をかんじさせる人物だ。
母親の神功皇后は、古代の皇室が誇る女傑。彼女も、先祖を訪ねれば、あめのひぼこ(天日槍、新羅から渡来した神)に行き着く。
神功皇后は。三韓征伐を成し遂げた。なんと、身重ながら渡海遠征して、新羅、百済、高句麗という、あの有名な半島の三ヶ国を服属させたという。
秦氏の既往を理解するために、この神を掘り下げていきたい。
神功皇后が、やわた(八幡)あまたの旗をなびかせ、女神のごとく、朝鮮へ攻め上る。
この航路は海北道中という宗像氏の版図を縦断する。
さて、三韓征伐。
本当に三韓を服属させたかどうかは措くとして、
ある程度スイシ(出帥、出兵)が成功した。どうも、この出兵は百済からの要請に応じて新羅を討ったものであり、百済王からすれば、人口の多い倭が味方してくれただけで、大喜びだろう。
結果、ただでさえこまやか(濃やか)だった日韓の交流が、さらに繁くなった。
近現代のように、ことごとしく国民意識や国境を構えている時代ではない。
しかも、皇室にも、そのlobbyistにも、多くの渡来人がいる。
派兵の結果「どうも、対馬海峡の向こうは景気がいいようだ」と考えた半島の人間が、大挙やって来るようになった。
実際、息子の応神天皇の時代、古事記にこう書かれている。
『この御代にあまべ(海部)やまべ(山部)やまもりべ(山守部)伊勢部を定めたまひき。
またつるぎのいけ(劔池)を作りき。
また新羅人まいわたり(参渡り)来つ。
ここをもちて武内宿禰命(新羅人を)引き率て、堤池(築堤をともなう池造りか)にえだちて(役ちて)百済池を作りき。』
蝦夷(東国人一般、アイヌではない)や、農耕民ではない漁民を平らげ、山海の部民を定めた。
新羅から渡来人がやって来たので、武内宿禰に率いさせて百済池を造らせた。
池を造る、というのは、この時代の農耕には重大な事業だ。
池というよりは人工湖を造る。これを農業用水に利用する。つまり、貯水池だ。
後に、弘法大師空海も、日本最大のため池であるまんのう池(満濃池)を造っている。その際の肩書きは、つきいけベットウ(築池別当、別当は長官)こんな役職があるくらい、池を築くことが重要だったのだ。
『また百済の国主ショウコ王(照古王)
牡馬ひとつ(壹疋、一匹)牝馬ひとつ(壹疋)をあちきし(阿知吉師)に付けてたてまつりき。
またたち(横刀)
また大鏡をたてまつりき。』
百済の国王が、馬や物品、このほかにも、論語などを献上したという。
日本が百済からの要請に応じて新羅討伐の軍を出した返礼とも言われている。
あわせて、あちき(阿知吉)わに(王仁)といった人士も渡来。
文物、人材、知識・・さまざまなものが、海を渡ってやって来る。
『またてひと(手人、手工業者)
からかぬち(韓鍛、朝鮮鍛冶)、名はタクソ(卓素)
またくれはとり(呉服、機織の女)のサイソ(西素)をたてまつりき。』
古朝鮮の名前が異風で面白い。
『またはたのみやつこ(秦造)の祖、
『あやのあたへ(漢直)の祖、
また酒をかむ(醸む、口噛み酒の醸造)ことを知れる人、名はにほ(仁番)またの名をすすこりども(須須許理等)まいわたり(参渡り)来つ。』
この多士済々、続々とつづく人と物の流れーーその中に、秦氏もいた。
この時期、本邦は地味や気候に恵まれ、恐らく人口も多かったろうが、文明では、中国に接する朝鮮の方が、ずっと進んでいた。
その技術が導入され、各地が開拓される。
三韓征伐は、軍事的な成功以上に、半島情勢にくさびを打ち込み、日本の存在感を誇示した、という点で重要だろう。
半島の臣民は日本を意識し、抗争に敗れ新天地を目指すものたちが対馬海峡を越えてやって来る。
軍事によって渡された架け橋で、日韓は強力に接続される。
技術が、日本を変えるーー太古から、上古へ。
古墳時代が姿を変える。
神功皇后が生まれた頃には、もう、前方後円墳のような数十メートルから数百メートルにもなる巨大墳墓を造るようになっている。この時点で、すでに鉄器と渡来人の土木技術が大いに役立っていたとかんがえるべきだろう。秦氏や、土師氏のような連中が活躍したはずだ。
技術、人の業の喜びよ。




