22話 朝ランニング
朝、玄関でスニーカーを履く。
まずは右、そして左、これがお決まりの順番。
靴紐はきつく締めすぎない。甲が高くて圧迫されるし、足首が固定されるのは好きじゃないから。
玄関を出て、ジャージのジップを一番上まで引き上げる。
屈伸、伸脚、前屈。ストレッチをして体をほぐす。足首を回しながら手首を振る。
血液が末端まで通って行くのがわかる。
深呼吸をしてから一歩。
休日の朝は、通勤するサラリーマンが少なく慌ただしい空気がないからランニングするのに向いている。
平日も走るけど学校があることを意識するのと、この後なにもないのとでは気分が違う。
俺は部活をしてないし、これといった趣味もないし、ランニングは定期的に続けている。
今日はなんだか気分が良い。
地元を抜けて高校の方まで走る。
川沿いの並木道、風が気持ちいい。
木々が揺れて、木の葉が擦れる音がする。
あの日もこういう空気だった。
走ってる時に鳴き声がしてふと見上げたら、黒猫が木の上で震えてたっけな。
その時にはもう枝が折れる寸前で、猫が降ってきたんだ。
今日は流石に猫はいないようだった。
あんなこと早々ないか、俺もランニングをしててあんな場面に出くわしたのは初めてだったし。
走っていると靴に違和感を感じて、足を止める。
結びが緩すぎたのか、足っているときに踏んだのか、靴紐がほどけていた。
しゃがんで結び直していると、人影が俺を覆った。
「田貫」
この声は。
「狼谷さん?」
見上げると、黒髪のショートヘアに涼しげな目元、黒いスキニーにグレーのパーカーのカジュアルな格好。着飾っていないのに漂う気品。
俺の憧れのコンビニ店員さん、城本凛子さんがいた。
「え、凛子さん?!」
「はい、どうかしましたか?」
あ、あれ、おっかしいな。
さっき田貫って呼び捨てされた気がしたんだけど。
「田貫さん?」
戸惑う俺に凛子さんは小首を傾げていた。
あぁ、その仕草ひとつとっても可愛らしい。
接客も丁寧で、品行方正な凛子さんが俺を呼び捨てにするはずがないか。
不意に話しかけられたから聞き取れなかっただけだろう。
「すみません、急に凛子さんが現れて驚いてしまって」
「その言い方、田貫さんにとって私はおばけか何かでしょうか?」
「いえ、そんなことは……!」
こんな可愛いおばけならいつでも化けてて出て欲しいところだ。
慌てて否定する俺をみて凛子さんはくす、と笑った。
「冗談です」
もう、凛子さん、と俺はたじたじになってしまう。
からかわれたとしても悪い気分じゃなかった。
気安いやりとりができて、むしろ嬉しいまである。
それよりも凛子さんに会ったら言いたいことがあったんだった。
「あの、凛子さん。先日はありがとうございました! 俺、凛子さんに言われた通りに行動したおかげで」
「仲直りできたみたいで良かったです。あのときは少し冷たく接してしまって、ごめんなさい」
「いえ、そんなことありません。うじうじしてた俺が悪いんです」
俺の対処が不味かったから、たとえ凛子さんであったとしても苛立たせたに違いない。
「田貫さんは今日も走っているんですね。すごいです」
「すごいんでしょうか。ただ習慣になっているだけです」
こっぱずかしくなって頭をかく。
走るのは続けているというよりは続いている、それだけのことだ。
中学で部活をやめてからも続いているだけ。
「いつもこの辺りを?」
「はい。ここは景色も綺麗で走っていて気持ちがいいんですよね」
「分かります。川沿いで木陰になっていてマイナスイオンが出てるんでしょうか、私もお気に入りです」
髪を片耳にかけながら、にこっと微笑む凛子さん。
川や木から出るマイナスイオンよりもずっと癒し効果が高い。
数キロランニングしたというのに疲れが吹き飛んだ気がする。
きっとなんらかの未知の化学物質が発生しているに違いない。
家から離れた場所を走っているのには、理由が大きく二つある。
一つは、こうしてまた凛子さんに会えるんじゃないかと思っていたからだ。
髪をかけたら、より上品さが増したように思う。
「耳……」
「え? そんなに見ないでください……」
凛子さんはかけていた髪を払い戻して、耳を隠す。
そして恥ずかしそうに見上げながらいう。
「えっち」
ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「すみません! まじで本当にそんなつもりはありません!」
「本当かな?」
「本当ですってば!」
うなじのようにいつも目にしない部分が見えたから、よこしまな気持ちがあって注視した訳じゃない。
耳に穴、いや、ほくろがいくつかあったから気になって見つめてしまったんだ。
「そういうことにしておいてあげます」
本当なのに。
でも、この理由もこの理由で気持ち悪いか。
言い返す言葉がなかった。
「私はこれからアルバイトがあるので失礼します。ランニング頑張ってくださいね」
手を振って凛子さんはコンビニへと向かって行った。
朝から働きものだなあ。俺も見習わないと。
一度のびをして、ランニングを再開する。
元気になったからいつも以上に走れた。それが余計だった。
「お前、田貫か」
野太い声とともに壁が立ちはだかって立ち止まる。
壁ではなく人間なのだが190cm近い慎重に、分厚い肉体は壁を思わせた。
エナメルのバッグを左肩にかけ、胸元には桜のマークの入った白ジャージ。
「……宗方」
市立明桜高校、バレー部、二年生にしてエースの宗方だった。
同い年とは思えない貫禄と迫力、最後にあったときよりデカくなってやがる。
地元じゃなく家から離れた場所まで走っているのには、理由が大きく二つあるといった。
その内の一つが知り合いと会わないためだ。
「久しぶりだな」
「あぁ」
挨拶を交わしたから、走って逃げたい。でも動かなかった。
その間に宗方が口を開く。
「田貫怪我したんじゃなかったんだな」
「怪我? どうして」
「ある時期を境に、大会で見なくなったから」
宗方が俺を見据える。
その眼光に耐えきれず俺は視線をそらす。
「バレーはもうやってないんだ」
俺の答えに、そうか、と宗方は頷いた。
「この地域で俺のスパイクを取れるのはお前くらいだったから、てっきり続けてるもんだと思っていた」
「誰でも彼でも続けられる訳じゃないんだ」
「バレー嫌いになったのか?」
こいつ、普通の人なら聞きずらいことをずけずけと。
「バレーをしてる自分が嫌いになったんだよ」
言い捨てて俺は背を向けた。
家に帰って汗ともやもやした気持ちをシャワーで洗い流す。
はあ、凛子さんに会って気分が良かったっていうのに。
調子に乗るもんじゃないな。




