第40.5話 続けるための表
正式契約の翌日、ベルカ商会は大きくなっていなかった。
店は狭い。
倉庫も狭い。
荷車も足りない。
商会主は、朝から浮かれていた。
「ロイ、正式契約です!」
「昨日聞きました」
「もう一回言ってもいいじゃないですか!」
「一回で十分です」
だが、仕事は一回では終わらない。
私は机に紙を広げた。
西区施療院の運用表、南区共同炊事場の配送表、三つの鍛冶場の確認表、桶職人の作業枠、在庫表。
「紙が増えています」
「増えます」
「正式契約を取ったのに?」
「正式契約を取ったからです」
「夢がない!」
「契約で壁は広がりません」
「もっと夢がない!」
実際、壁は広がらなかった。
だから、置き方を変える。
南区用、西区用、予備、修理待ち、部品取り。
同じ倉庫でも、置く場所を分ければ少し倉庫らしくなる。
札も変えた。
南区は黒、西区は青、予備は丸印、修理待ちは紐を二重にする。
「色まで使うんですか」
「間違いを減らします」
「おしゃれではなく?」
「違います」
「少しはおしゃれでもいいのに」
商会主はそう言いながら、青い札をまじめに結んでいた。
浮かれてはいる。
だが、手は動く。
それは悪くない。
トマは西区、エドは南区、商会主は確認と交渉、クロードさんは止まりそうな場所を見る。
人は増えていない。
荷車も一台、朝だけ借りるだけだ。
だが、動き方は変えられる。
「ロイ」
「はい」
「これ、商会っぽいです」
「商会ですので」
「前は何だったんですか」
「勢いです」
「否定しづらい!」
商会主は少しむくれた。
だが、すぐに別の紙をのぞき込む。
「これは?」
「週の確認表です」
「週?」
「毎日慌てると、毎日間違えます。週で見ます」
「名言っぽい!」
「普通です」
ニール鍛冶場は細輪金。
川沿いは継ぎ輪金。
西門は太輪金。
桶職人は修理枠。
それぞれ、日を決めて確認する。
足りなくなってから走るのではなく、足りなくなる前に見る。
それだけで、かなり違う。
クロードさんが表を見た。
「悪くない」
商会主の顔が、わかりやすく明るくなった。
「本当ですか」
「ああ」
「何割ですか」
「表は九割」
「表は!」
「お前は浮かれている」
「そこは見なくていいです!」
商会主は文句を言った。
だが、嬉しそうだった。
商会主は、クロードさんに「悪くない」と言われると、帳簿の数字よりわかりやすく顔を明るくする。
クロードさんは、それを見ていないふりをする。
見ていないふりをする人間は、だいたい見ている。
「商会主」
「はい?」
「クロードさんへ、規格票の写しを渡してください」
「わたしがですか?」
「はい。確認が必要です」
「ロイでもよくないですか?」
「私は帳簿を閉じます」
「それなら仕方ないですね」
本当は、私が渡してもよかった。
商会主は規格票を持って、クロードさんの方へ行く。
「クロードさん、これです」
「ああ」
「今日のわたしは浮かれていません」
「浮かれている」
「まだ言いますか!」
「紙を落とすな」
「落としません!」
商会主はそう言って、規格票を一枚落とした。
クロードさんが拾う。
「落とした」
「今のは紙です!」
「紙から始まる」
「厳しい!」
私は帳簿に目を戻した。
目を戻したが、見えてはいた。
商会主は、クロードさんから紙を受け取る時だけ、少し声が小さくなる。
商会主とクロードさんの間には、まだ名前のないものがある。
名前をつけると、商会主はたぶん慌てる。
クロードさんは、たぶん黙る。
だから、今は書かない。
帳簿に書けないものも、商会には少し必要だった。
昼には、商会主が豆の煮込みを出した。
以前より、少し量が多い。
塩も少しだけ強い。
「正式契約記念です」
「経費ですか」
「違います! 気持ちです!」
クロードさんが一口食べた。
「うまくなった」
商会主の手が止まった。
「……今、何て言いました?」
「うまくなった」
「もう一回」
「二回言った」
「三回目も」
「食え」
「厳しい!」
商会主はそう言いながら、嬉しそうに椀を持っていた。
店は狭い。
倉庫も狭い。
荷車も足りない。
それでも、昼飯の湯気があると、少し商会らしく見える。
午後、私は運用表を清書した。
西区、南区、予備、修理、鍛冶場、桶職人、支払い。
すべて一枚に収める。
収まらないものは、別紙に分ける。
商会主は前へ出る。
クロードさんは、止まっているものを見る。
なら、自分は、続けるための形を作る。
それが帳簿係の仕事だ。
「ロイ」
「はい」
「難しい顔をしています」
「普通です」
「普通が難しい顔なんですね」
「はい」
「認めた!」
その時、店の扉が鳴った。
入ってきたのは、見慣れない服の男だった。
商人ではない。
職人でもない。
役人の下働きに近い。
男は封書を一通、両手で差し出した。
「ベルカ商会主、ミリア・ベルカ殿へ」
紙は厚い。
封蝋には、見慣れない紋章。
私は封を見て、少しだけ息を止めた。
「商会主」
「はい?」
「領主館からです」
「えええええ!」
商会主の声で、棚の札が一枚揺れた。
クロードさんが、落ちる前に押さえる。
商会主はそれを見て、少しだけ黙った。
私は運用表に、新しい欄を作った。
領主館。
まだ、何を運ぶかは決まっていない。
だが、商会主が前へ出るなら、表は必要になる。
クロードさんが横にいるなら、たぶん止まりはしない。
そう思ったことは、帳簿には書かなかった。




