第35話 ニール鍛冶場を守ります
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西区試験運用、五日目。
朝の帳簿は、少しだけ落ち着いていた。
札もついた。配送順も決まった。桶職人の作業枠も押さえた。
だから、今日は少し楽になる。
そう思った。
「商会主」
ロイが言った。
「ニール鍛冶場から、使いが来ています」
「……嫌な予感がします」
「私もします」
「ロイが言うと本当に嫌です」
使いの少年は、息を切らしていた。
「ニール親方が、すぐ来てほしいって」
「輪金ですか」
「はい。あと、ガリオ商会の人が来てます」
やっぱりだった。
クロードさんが立ち上がる。
「行くぞ」
「はい!」
ニール鍛冶場へ着くと、炉の火が強く見えた。
鉄の匂いが濃い。
けれど、槌の音は止まっている。
それが一番よくない。
ニールさんは炉の前で腕を組んでいた。
向かいには、ガリオ商会の男がいる。
いつもの男ではない。
でも、笑い方は似ていた。
「ベルカ商会さん」
ニールさんが低い声で言った。
「ちょうどよかった」
「何があったんですか」
ガリオ商会の男が先に答えた。
「ニール鍛冶場さんに、輪金のまとまった注文をお願いしているだけです」
「まとまった注文」
「ええ。細い輪金を百。太い輪金を三十。納期は七日」
わたしは固まった。
百。
三十。
数が大きすぎる。
「ニールさん、それはできますか」
「無理だな」
ニールさんは即答した。
少し安心した。
でも、ガリオ商会の男は笑っている。
「もちろん、すべて今すぐとは言いません。うちと優先契約を結んでいただければ、材料も前金も出せます」
「優先契約……」
嫌な言葉だった。
西区施療院で見たものと同じ匂いがする。
「その場合、他の小口注文は後回しになります」
男がこちらを見る。
「小さな注文をいちいち受けていては、鍛冶場も大きくなれませんから」
ニールさんの顔は動かない。
でも、迷っていないわけではない。
前金、材料、大口。
小さな鍛冶場には、強い言葉だ。
わたしは帳簿を握った。
「ニールさん」
「なんだ」
「ベルカ商会の注文は、邪魔ですか」
聞いてから、少し怖くなった。
でも、聞かなければいけない。
ニールさんは、しばらく黙った。
「邪魔じゃない」
短い声だった。
「ただ、薄い」
「利幅ですか」
「ああ。小口だし、急ぎもある。悪い仕事じゃないが、楽ではない」
「ですよね」
わたしはうなずいた。
楽ではない。
それは、こちらも同じだ。
ガリオ商会の男が言った。
「ですから、こちらはまとまった仕事を出します。鍛冶場としては、その方がよいでしょう」
「全部受けたら?」
クロードさんが言った。
男がクロードさんを見る。
「はい?」
「炉が止まる」
ニールさんが、ほんの少し目を細めた。
クロードさんは続けた。
「七日でその数は無理だ。無理に回せば雑になる。雑になれば作り直しが出る。作り直しが出れば、炉が詰まる」
男の笑みが薄くなる。
「材料と前金は用意します」
「時間は増えない」
短い。
でも、強い。
ニールさんが低く笑った。
「その通りだ」
わたしは息を吸った。
「ニールさん、ベルカ商会からお願いがあります」
「なんだ」
「無理な数は頼みません」
ガリオ商会の男が眉を動かす。
わたしは続けた。
「今まで通り、小口です。必要な分だけ。納期も、できる数で組みます。急ぎと予備も分けます」
「それでは、大きく儲かりませんよ」
男が口を挟む。
「そうです」
わたしは答えた。
「でも、炉は壊れません」
ニールさんがこちらを見た。
わたしは帳簿を開く。
「今週、ベルカ商会が必要なのは、細い輪金が十二。継ぎ輪金が六。太い輪金は今すぐ不要です」
「少ないですね」
「少ないです」
男の言葉に、わたしはうなずいた。
「でも、確実に使います。支払いも納品ごとにします。遅れそうなら前日に言ってください。こちらで順番を変えます」
ニールさんの眉が少し動いた。
「順番を変える?」
「はい。南区、西区、予備。全部を同じ日にしません。できる分から受けます」
「面倒な商会だな」
「最近、よく言われます」
ニールさんが少し笑った。
その笑いで、炉の前の空気が変わった。
ガリオ商会の男は、まだ引かない。
「しかし、前金があれば材料を多く買えます。鍛冶場にとっては好機です」
「材料を買っても、叩く腕は増えません」
わたしは言った。
「ニール鍛冶場さんが無理をして止まれば、うちも止まります。南区も西区も止まります」
「ずいぶん大げさですね」
「大げさではありません」
声が少し強くなった。
「小さな火でも、消えたら困る場所があります」
ニールさんが、炉を見た。
赤い火が揺れている。
大きくはない。
でも、消えていない。
「ベルカ商会さん」
ニールさんが言った。
「注文数をもう一度」
「細い輪金十二。継ぎ輪金六。太い輪金は保留。納期は三日に分けます」
「三日?」
「今日四、明日六、三日目に残り。無理なら変更します」
「支払いは?」
「納品ごとに即金」
「材料は?」
「必要なら、規格外鉄材を追加で探します。ただし、使えるものだけです」
ニールさんは少し黙った。
それから、ガリオ商会の男へ向いた。
「悪いが、百は受けない」
男の顔が固まった。
「では、数を減らして」
「優先契約も結ばない」
「理由を伺っても?」
「炉が詰まる」
ニールさんは短く言った。
「それに、今の俺には、細い仕事がある」
胸の奥が熱くなった。
細い仕事。
それは、たぶんベルカ商会の仕事だ。
ガリオ商会の男は笑みを戻した。
「後悔なさらないように」
「するかもしれん」
ニールさんは言った。
「だが、無理な火で炉を割るよりましだ」
男は軽く頭を下げ、鍛冶場を出ていった。
槌の音は、まだ戻っていない。
でも、炉の火は消えていない。
「商会主」
ニールさんが言った。
「細い輪金十二。継ぎ輪金六。三日に分ける。それでいいな」
「はい」
「太い輪金は?」
「今は保留です。必要になったら、先に相談します」
「助かる」
助かる。
鍛冶場側からそう言われるとは思わなかった。
わたしは少しだけ息を吐いた。
クロードさんが言った。
「悪くない」
「何割ですか」
「九割半」
「十割ではないんですね」
「まだ火は守っただけだ」
「厳しい!」
ニールさんが笑った。
「何の話だ」
「評価です」
「商会主も大変だな」
「本当に大変です」
ニールさんが炉へ向き直った。
「だが、仕事はする」
槌の音が戻った。
高く、短く、まっすぐな音だった。
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
ベルカ商会へ戻ると、ロイがすぐに帳簿を開いた。
「結果は?」
「ガリオ商会の大口注文は断られました。ベルカ商会分は、三日に分けて受けてもらえます」
「注文数は?」
「細い輪金十二。継ぎ輪金六。太い輪金は保留。納品ごとに即金です」
ロイが書く。
「よい条件です」
「やりました?」
「やりました」
短い。
でも効く。
「ただし、これでニール鍛冶場への依存がはっきりしました」
「ですよね」
「次は、別の鍛冶場も探す必要があります」
「余韻!」
「必要ですので」
やっぱり余韻は短かった。
でも、今回は少しわかる。
一つの炉を守った。
けれど、一つの炉だけに頼れば、また止まる。
細い火は、守らなければ消える。
でも、一本だけでは足りない。
ベルカ商会は、ニール鍛冶場の火を消さずに済ませた。
次は、同じような小さな火を探す番だった。
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