第22話 西区から相談が来ました
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翌日。
ベルカ商会の倉庫では、朝から桶と小樽の確認が続いていた。
直せる小樽、輪金だけ外す桶、火付けに回す板、完全に捨てるもの。
南区配送の倉庫だったはずなのに、今は半分ほど修理場になっている。
「……うちは、何の商会でしたっけ」
「ベルカ商会だ」
クロードさんは小樽を見ながら答えた。
「それは知っています」
「ならいい」
「よくありません」
ロイが帳簿を開いた。
「商会主、南区分の小樽修理は今日で目処が立ちます。共同炊事場、施療院、簡易宿の分は止まらずに回せます」
「よかったです」
「ただし、輪金の予備は少ないです」
「よくなかったです」
「それと、荷車修理費の支払いがあります」
「さらによくなかったです」
「でも、新品を買いそろえるよりは安く済んでいます」
「そこは、よかったです」
少しずつ、数字の見え方が変わってきている。
安い、高い、足りる、足りない。
それだけではない。
今は、止まるかどうかを見る。
止まらなければ、次へつながる。
そう思った時だった。
店先から、急ぎ足の音がした。
「ミリアさん、少しよろしいですか」
エルマンさんだった。
いつもより息が上がっている。
「どうしました?」
「南区だけではありません。西区の施療院でも、小樽が足りないそうです」
西区。
わたしは固まった。
「西区、ですか」
「はい。南区で修理と回収をしていると聞いて、相談が来ました」
ロイの帳簿が止まった。
トマたちも手を止めた。
クロードさんだけが、あまり驚いていない。
「クロードさん」
「なんだ」
「南区の話ですよね?」
「今まではな」
「今までは?」
「次は区をまたぐ」
「えぇぇぇぇ!?」
エルマンさんは困ったように書類を差し出した。
「まだ正式な依頼ではありません。ただ、話だけでも聞いていただけないかと」
話だけ。
最近、その言葉で終わったことがない。
わたしは帳簿を閉じた。
「聞きます」
自分で言って、少し怖くなった。
でも、言った。
クロードさんが小さくうなずいた。
「半分以上だな」
「今は全部ください!」
「まだ早い」
「厳しい!」
西区の施療院は、南区よりも大きかった。
建物は古いが、出入りする人が多い。
中庭には、洗い終えた布と薬草の束が干されていた。
案内してくれたのは、細い顔の管理人だった。
「ベルカ商会さんですね。南区で小樽の修理と回収をしていると聞きました」
「はい。ただ、うちはまだ南区配送の途中です」
「承知しています。今日は相談だけです」
相談だけ。
まただ。
わたしは警戒しながら帳簿を開いた。
「不足しているのは小樽ですか」
「小樽と桶です。薬草を漬けるもの、湯を運ぶもの、汚れ物を分けるもの。まとめて古くなっています」
思ったより多い。
「新品を買う予定は?」
「あります。ただ、値が上がっています。輪金の荷が遅れているとかで」
やっぱり。
輪金が止まると、桶と樽が止まる。
それは南区だけの話ではなかった。
クロードさんが静かに言った。
「数は?」
管理人は書類を見た。
「すぐ必要なのが小樽五つ、桶三つ。来週までに、さらに同じくらい」
「多いです」
思わず声が出た。
クロードさんは中庭を見た。
それから、建物の奥にある物置の方を見た。
「壊れたものは?」
「あります。使えないので置いたままですが」
「見せてください」
物置には、古い小樽と桶が積まれていた。
南区で見たものより数が多い。
底が抜けたもの、輪金が外れたもの、板が割れたもの、まだ使えそうに見えるもの。
「……多いですね」
「多いな」
「嬉しくない多さです」
「使えるものがある」
「やっぱりそこを見るんですね」
クロードさんは、壊れた小樽を一つ持ち上げた。
「これは直る」
「本当ですか」
「輪金を替えればいい。板は生きている」
次に、別の桶を見る。
「これは駄目だ」
「なぜですか」
「底が腐っている」
「見るのが早いです」
「慣れた」
「慣れるものなんですか」
「慣れる」
管理人が驚いた顔で見ている。
「そんなにすぐわかるのですか」
「だいたいは」
だいたい。
その言葉が、少し怖い。
でも、だいたいで当たるのがクロードさんだった。
わたしは帳簿に書き始めた。
「修理できるものと、部品にできるものを分けます。新品を全部そろえるより、費用は下げられると思います」
「助かります」
「ただし、うちは南区の正式配送中です。西区分をすぐに全部引き受けることはできません」
言えた。
前なら、お願いされた時点で受けていた。
でも、今は違う。
受けすぎれば止まる。
止まれば、信用を失う。
「まず、今日できるのは確認です。修理できる数、必要な新品の数、運ぶ日数。それを出します」
管理人はうなずいた。
「それで構いません」
よかった。
無理に今日の仕事にはならなかった。
そう思った時、クロードさんが言った。
「ただ、二つは今日運ぶ」
「え」
「南区の桶職人に見せる。見積もりが早い」
「今、今日の仕事にしないって言ったところです!」
「全部ではない」
「そういう問題ですか!?」
「二つなら積める」
荷台を見る。
確かに、二つなら積める。
でも、気持ちは積めない。
「……二つだけです」
わたしは言った。
「小樽を二つだけ預かります。修理できるか確認します」
管理人は、ほっとしたように頭を下げた。
「お願いします」
帰り道。
荷台には、西区の小樽が二つ乗っていた。
南区便の帰り荷とは別のものだ。
区をまたいだ。
ただそれだけなのに、急に遠くへ来た気がした。
「クロードさん」
「なんだ」
「これ、始まりましたか」
「始まったな」
「何がですか」
「区をまたぐ仕事だ」
「まだ二つだけです」
「最初はいつも少ない」
「嫌な説得力!」
ベルカ商会に戻ると、ロイが荷台を見て固まった。
「商会主」
「はい」
「西区の小樽ですか」
「はい。二つだけです」
「二つだけ、という言い方は危険です」
「そうですよね。わたしも言っていて嫌でした」
ロイは静かに帳簿を開いた。
「南区とは別項目にします」
「お願いします」
「西区施療院、修理確認分、小樽二つ」
書かれた。
項目が増えた。
その瞬間、仕事も増えた気がした。
トマが小樽を下ろしながら言った。
「商会主、これで西区にも行くんですか?」
「まだ行きません」
「まだ、ですか」
「……まだ、です」
自分で言って、嫌になった。
クロードさんが、少しだけ笑った気がした。
「言い方がわかってきたな」
「覚えたくありませんでした」
夕方、桶職人が西区の小樽を見に来た。
一つは直せる。
一つは部品取り。
その判断は早かった。
「西区の施療院か。あそこも桶を使うからな」
「知っているんですか」
「そりゃ知ってる。桶や樽が壊れたら、だいたい職人のところに話が来る」
職人は腕を組んだ。
「最近、あちこちで輪金が足りない。北からの荷が遅れてるだけならいいが」
「だけなら?」
「長引くと、桶と樽の修理が詰まる」
また同じ話だ。
でも、今度は南区ではない。
西区まで広がっている。
クロードさんは黙っていた。
わたしは、その沈黙が少し気になった。
「クロードさん」
「なんだ」
「見えていますか」
「少しだけ」
「何がですか」
「輪金の不足は、広がる」
胸の奥が重くなった。
「どこまで?」
「まだ、はっきりしない」
また、はっきりしない。
クロードさんにしては曖昧な言い方だ。
だから余計に怖い。
「でも、止めない方法はありますか」
「ある」
「なら、聞きます」
言ってから、自分で少し驚いた。
以前なら、まず驚いていた。
今は、聞く方が先に出た。
クロードさんも、少しだけこちらを見た。
「古い輪金を集めるだけでは足りない」
「はい」
「直せる職人も足りなくなる」
「職人も?」
「樽と桶が増えれば、直す手が足りない」
そうか。
物だけではない。
直す人も必要になる。
「では、次に足りなくなるのは」
「職人の時間だ」
職人が苦笑した。
「その通りだな。もう仕事は増えてる」
わたしは帳簿を見た。
小樽、桶、輪金、荷車、職人の時間。
また、必要なものが増えている。
「クロードさん」
「なんだ」
「商売って、物だけじゃないんですね」
「そうだ」
「人の時間も、足りなくなる」
「そうだ」
「……大きいです」
「大きいな」
「否定してください」
「無理だ」
夜になって、ベルカ商会の帳簿には新しい欄ができた。
西区施療院。
まだ、修理確認だけ。
小さな欄だ。
でも、わたしには大きく見えた。
「商会主」
ロイが言った。
「西区分は、今は調査扱いにしておきます」
「はい」
「正式に受けるなら、南区とは別契約が必要です」
「わかっています」
「前金も必要です」
「わかっています」
「人手も足りません」
「わかっています……」
わかっている。
わかっているのに、どんどん増える。
クロードさんが言った。
「次は聞きに行くだけでいい」
「本当ですか」
「最初はな」
「その言い方、信用できません」
「正しい」
「認めないでください!」
ベルカ商会は、南区の小樽を止めずに済ませた。
その結果、西区の施療院からも相談が来た。
まだ正式な仕事ではない。
けれど、帳簿にはもう、西区の欄ができていた。
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