第一話 流れ先
深夜の路地裏。湿ったアスファルトの上を、一人の男が死に物狂いで駆けていた。
ハァッ、ハァッ、という短い呼吸が、コンクリートの壁に反響して不気味に響く。
男が通り過ぎた後の路地は、まるで数十年分の時間が数秒で凝縮されたかのように、壁の塗装が剥げ落ち、鉄格子の柵が赤錆びてボロボロに崩れ去っていた。
「ひ、ひいっ……!」
背後から迫る「死」の気配に、男が振り返った瞬間。 空気を切り裂く水音が響き、視界が歪んだ。
直後、男の左足に衝撃が走る。肉が弾け飛ぶ感触はなく、代わりに聞こえたのは、枯れ木が折れるような乾燥した音だった。 当たった箇所の皮膚は一瞬でひび割れ、古文書のように脆く崩れ落ちていた。
「オ、オレが何したってんだよぉ……!」
男は石畳に這いつくばり、絶望に顔を歪める。 なぜ自分がこんな目に遭うのか、その理由にすら心当たりがない。ただ、異能を少しばかり私利私欲に使っただけだというのに。
暗闇の奥から、二つの足音が近づいてくる。
「本気で言っているのか?」
冷徹な声。 街灯の下に姿を現したのは、高校生ほどの少年だった。 時代錯誤なほどに折り目正しい佇まい。
だが、その瞳には同年代が持つはずの幼さはなく、数千年の時を凝縮したような深い虚無が宿っている。
男は、自分より遥かに年下の少年に追い詰められている事実に、激しい憤りを感じた。
「くそがぁ……殺してやる!」
男が殴りかかろうと地を蹴る。だが、自分の左足がすでに「機能を喪失した残骸」になっていることを忘れていた。 男は無様にバランスを崩し、泥水の中に顔を突っ込む。
「お前が犯した罪を数え上げる前に、幾つか聞きたいことがある」
少年――浦島征太郎は、ゴミを見るような目で男を見下ろした。
「一つ。乙音、という名前に聞き覚えは?」
「知らねえよ……」
「そうか。……では、二つ。『真理』について知っていることは?」
「知らねえって言ってんだろ! 何なんだよ、お前らは!」
征太郎は、小さく息を吐いた。
「……わかった。協力、感謝する」
征太郎が掌を向ける。そこには、透き通った“水”が溜まっていく。
かつて乙姫が「綺麗」と称えたその水は、今や触れたものの未来を奪い去る死の飛沫へと変質していた。
「殺すなや。こいつはムショに入れなあかんねんから」
背後で、針のような細剣を弄んでいた男が口を挟む。 征太郎は一瞬だけ手を止め、淡々と応じた。
「……そうでしたね。では、逃走防止に。
もう一本、いっておきますか」
バシュッ、と鋭い水音が響く。
放たれた“水”が右足を掠めた瞬間、男の脚はガラス細工のように細かくひび割れ、動かなくなった。
「相変わらず、えげつないなぁ。その異能」
「……本来は、もっと透明で、綺麗なものだったんですよ」
静まり返った路地に、無機質な電子音が響く。
ーープルルルル、プルルルル。
征太郎は懐から取り出したスマートフォンという「未来の道具」を耳に当てた。
「もしもし。……はい、終わりました」
『おお、そうか。ご苦労だったな、征太郎』
受話器の向こうから聞こえるのは、どこか楽しげな老人の声。
「いえ、手応えもありません。弱かったですし」 『ははは、言うようになったな。もう引き上げていいぞ。明日は学校じゃろう?』
……学校。
あの「お節介爺さん」こと、花咲狂四郎に半ば強制的に放り込まれた、現代の教育機関。 征太郎は小さく眉をひそめて電話を切った。
「もう帰ってええのん?」
隣で、一条寸が退屈そうに欠伸をしていた。
この男、今日の任務では一歩も動いていない。
「そうですね。俺も明日は早いので、帰ります」 「帰ろ帰ろー。お腹空いたわぁ」
浦島征太郎は、現在、日本の異能統制組織「異能特務課」に所属している。
建前は協力者。だが、その実態は――危険異能保持者としての「監視対象」だった。
数週間前、この見知らぬ「現代」に流れ着いた俺は、飢えに耐えかねて一つの罪を犯した。
……食い逃げだ。
明治の道徳観と空腹の間で葛藤した末の、無様な犯行。 だが、追いかけてきた警官に捕まりそうになった瞬間、防衛本能が働いた。
魔改造された俺の異能「海-玉手箱」が、勝手に周囲の時間を削り取ってしまったのだ。
結果、俺は異能特務課へと連行された。 本来なら、その凶悪な能力ゆえに一生を暗い檻の中で過ごすはずだった。
『別にいいんじゃね? わしらが面倒見るぞ』
そんな軽い一言で俺を拾ったのが、課長の花咲狂四郎だった。 そうして俺は、永久収監の代わりに「監視付きの自由」を手に入れたのだ。
ズー、ズー。
「……美味いなぁ」
「……そうですね」
深夜まで営業しているラーメン屋。 カウンターに並んで座る俺たちの前には、湯気を立てる丼。
俺は一刻も早く帰りたかったのだが、この「監視者」がどうしても寄ると言って聞かなかった。
「ほんま、五臓六腑に染み渡るわぁ」
「…………」
「そういえば、僕、今日財布忘れてん」
「……またですか」
ラーメンを啜る手が止まる。 こめかみに青筋が浮かぶのを自覚しながら、征太郎は深く息を吐いた。
「この前も……その前もそうでしたよね」
「まあ、細かいことはノーカンってことで」
「……あんたを納棺してやりましょうか、一条さん」
一条寸。一応、俺の監視者であり、特務課の副課長という肩書きを持つ男。
性格はご覧の通り、適当。だが、時折見せるその鋭い視線が、彼の異能「寸界」の片鱗であることを、俺はまだ知らない。
翌朝。ピピピッ、と鳴り響く目覚まし時計を止め、俺は鏡の前に立った。 袖を通すのは、この時代の「制服」と呼ばれる服。
失われた乙音の手がかり。 そして、あの日彼女が口にした「真理」の正体。 それを探るために、俺は潜入を決めたのだ。
私立秀殊館。 学長自らが異能力者であり、都内でも有数の「異能者在籍率」を誇る進学校。
そこに通う「普通」の生徒たちの中に、まさか明治から来た「死の水」を操る少年が紛れているとは、誰も思うまい。
「……行くか」
俺は黒いカバンを手に取り、慣れない現代の街へと踏み出した。




