プロローグ
――時間は、水のように流れるらしい。
誰の言葉だったか。思い出せないが、不思議と納得していた。
掬おうとしても、指の隙間から零れ落ちる。戻そうとしても、決して戻らない。
――そんなものだ、と。
――むかし、むかし。
ある浜辺で、亀がいじめられていました。
誰もが一度は聞いたことのある話だ。けれど。
「……実際に見ると、笑えないな」
潮の匂いが鼻を刺す。日差しを反射した波が、白く揺れていた。
その浜辺の端で、数人の子供たちが一人の少女を囲んでいる。
「ほら、立てよ」「その服……また竜宮のとこだろ」「竜宮のとこって、バケモンばっか集めてんだろ?」
嘲る声。
蹲っている少女は、黒を基調とした衣服に白いフリルを纏っていた。整いすぎたその格好は、この場ではむしろ異物だった。
「……やめろ」
気付けば、口にしていた。
一歩、踏み出す。
「それ以上は見過ごせない」
子供たちの視線が、一斉にこちらへ向く。
「げっ……浦島だ」「やべぇ、あいつも異能持ちだぞ」
露骨に顔を歪め、後ずさる。
――くだらない。
右手を軽く振る。
指先から放たれた“水”が、一直線に砂を抉った。
ぱしん、と乾いた音。子供たちの足元が崩れる。
「ひっ……!」
悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げていく背中を見送る。
追う気はない。
「……大丈夫か」
少女の前にしゃがみ込む。
「ひっ……ぐ、う……」
震えたまま、顔を上げる。怯えた瞳が、こちらを映していた。
……やりすぎたか。
「怖がらなくていい。ただの水だ」
手のひらを開く。そこに浮かんだ水が、静かに揺れる。
透き通ったそれは、陽光を受けて淡く輝いた。
「……すごい」
小さな声。
だが、次に続いた言葉は、少し違っていた。
「……でも、その水……変です」
「変?」
「普通の“流れ”じゃない……気がします」
――妙なことを言う。
「竜宮家の使用人だろ、その服」
話題を変える。
「……はい」
少女は小さく頷いた。
「買い出しの途中で……見つかってしまって……」
なるほどな、と息を吐く。
竜宮家。異能力者を積極的に雇い入れていることで知られる、奇特な財閥。
――同時に、偏見の的でもある。
「……浦島さん、ですよね」
「ああ」
「同じ学校ですし……それに、有名ですから」
少しだけ、目を伏せる。
「川の氾濫を止めたって……」
「……あれは、たまたまだ」
事実だ。
あの時、流れを逸らしただけだ。結果として、別の場所の水位を上げた。
救えたものと、救えなかったもの。その両方があった。
「俺にできることをやっただけだ」
それ以上でも、それ以下でもない。
「……あの」
少女が、ためらいがちに口を開く。
「お礼に……竜宮家へご案内してもよろしいでしょうか」
「当主様も、浦島さんの“異能”に興味をお持ちで……」
――異能。
俺は生まれながらにその“異能”を持っていた。
水を生み、操る。ただ、それだけの力だ。
「……まあ、いい」
短く答える。
どうせ、帰る方向は同じだ。
「ありがとうございます」
少女は、ほっとしたように微笑んだ。
その表情は、さっきまで泣いていたとは思えないほど、どこか柔らかかった。
屋敷へ向かう道中。彼女はぽつりぽつりと話した。
名前は、亀卦川翠羅。竜宮家は、異能力者を保護する家であり、自分も拾われたこと。
そして――|
「当主様もお嬢様も、とても、お優しい方です!」
まるで自分のことであるかのように、誇らしげに、けれど、どこか少し迷ったように言った。
「でも、お嬢様は、ただーーーー」
竜宮家は、静かだった。
音がない、というより。“無駄な音が存在しない”ような、妙な静けさ。
広い屋敷の奥。
――そこで、彼女はいた。
「初めまして、浦島征太郎」
透き通るような声だった。
長い髪が、わずかに揺れるように見える。風は、吹いていないのに。
「私は、竜宮乙音」
そう名乗る声は不思議と通っていた。
その瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
観察するように。けれど、どこか不器用に。
――その瞬間。
胸の奥が、ざわついた。
初めて会ったはずなのに。どこかで知っている気がした。
理由は、わからない。
ただ。
「……あなたの力、見せてもらっても?」
言い方は穏やかだった。
けれど、拒む気にはなれなかった。
頷き、手をかざす。
水が、生まれる。
空中に浮かぶ、小さな流れ。静かに揺れる、それだけのもの。
乙音は、それをじっと見つめていた。
瞬きもせずに。
――やがて。
「……綺麗」
ぽつり、と零す。
けれどその声は、どこか不思議だった。
感想というより、初めて見たものを、そのまま言葉にしているような。
「どうして、そう思うんだ?」
思わず、聞いてみた。
乙音は少しだけ首を傾げる。
「……わかりません。
ただ、そう言うのが、正しい気がしたので」
――奇妙な答えだった。
けれど。
なぜか、彼女から目を逸らせなかった。
当主の厚意で竜宮家の滞在を認められて、数日が過ぎた。
理由なんて、よくわからない。
ただ。
彼女と話す時間が、増えていた。
ー数日後
「これは、“楽しい”という感情ですか?」
そう言って、ほんのわずかに、口元を緩める。
ぎこちない。作り物みたいな笑顔だ。
けれど、
「……それは、たぶん」
言葉に、少しだけ迷う。
「正解だ」
その瞬間。
乙音の表情が、ほんの少しだけ変わった。
初めて、“楽しい”を理解したかのように。
そのたびに、少しずつ。
彼女の何かが変わっていく気がした。
その日、屋敷は、静かだった。
いや、静かなのはいつも通りなのだが、何か少し異様だった。
まるで雨の日のような。
食堂で居合わせた翠羅に聞く。
「今日の屋敷は何か変じゃないか?」
「そうですか?」
亀卦川はまだ気付いていないようだ。
「お嬢様がまだいらしてないので、お部屋まで呼びに行こうと思うのですが……」
「ついて行っていいか?」
「はい!もちろん!お嬢様もきっと喜びます!」
廊下を進む。
奥へ、奥へ。
――違和感が、増していく。
「……おかしい」
さすがに異変に気付いたのか、翠羅が立ち止まった。
「この先が……お嬢様の部屋のはず、ですが」
空気が、重い。
湿っているわけでもないのに、呼吸が引っかかる。
その時、翠羅の言葉がふと蘇る。
屋敷へ向かう道中。翠羅との会話。
「当主様もお嬢様も、とても、お優しい方です!
でも、お嬢様は、ただ……」
「ただ?」
「時々、わからなくなるんです」
足を止めずに、続ける。
「何を考えているか、じゃなくて……」
一瞬、視線を落とした。
「“同じものを見ているのか”が」
扉は、半開きだった。
中を覗く。
部屋の中央。
乙音の膝の上に、綺麗な螺鈿細工の小さな箱があった。
だが、
――見た瞬間、理解した。
これは、触れてはいけないものだ。
「あの箱は一体……」
翠羅の声が、わずかに震える。
「見たこと、ありません……」
乙音と目が合った。
「……征太郎」
いつもと同じ、静かな声。
だが、どこか、違う。
「それに……翠羅も」
名前を呼ばれ、翠羅が息を呑む。
「それは……何ですか?」
翠羅が問いかける。
乙音の視線が、また、“箱”に戻る。
「わかりません」
呟くように言った。
「でも……」
わずかに、間が空く。
「これを、開けるべきだと……」
乙音は改めてこちらを見て言った。
「それが正しいのだと……最初から知っていた気がするんです」
ぞくり、とした。
理由のない確信。
それが、一番危険だ。
「やめろ──それは、開けるな」
一歩、踏み出す。
乙音の指が、箱に触れる。
「理由は……わかりません」
――カチ、
音がした。
次の瞬間。
世界が、流れた。
“水”が溢れる。
空間そのものが、崩れていく。
柱が歪む。壁が朽ちる。床が沈む。
すべてが、一瞬で“古く”なる。
「……っ、なんだ、これ……!」
足元が崩れる。
触れた場所から、色が抜けていく。
時間が、流れている。
それも、異常な速さで。
「浦島さん!下がってください!」
翠羅が叫ぶ。
その声も、どこか遠い。
乙音の体に、“水”が触れる。
髪が揺れる。
だが――
それ以上は、変わらない。
「……止まらない……」
乙音の声が、震える。
「これは……“真理”……」
玉手箱が、開いた。
音はない。
ただ、溢れ出した“水”に触れたものから順に、
形が崩れ、意味が消え、存在が消える。
「離れるぞ!!」
乙音の手を引く。
その瞬間。
“水”が、すべてを飲み込んだ。
視界が歪む。音が消える。体が軽くなる。
時間が――
途切れた。
「……乙音」
気がつくと地面に倒れていた。
森の中。
見覚えはない。
しかし、どこか懐かしい面影を感じる。
「乙音は……」
記憶を探る。
意識が途切れる直前、確かに乙音の手を握っていた。
不意に掌から水が溢れる。
足元の草が一瞬で色を失った。
「……は?」
もう一滴、落とす。
ポチャッ。
足元の草が枯れ、小石が風化した。
これは水じゃない。
もう俺の知っている水ではない。
「……時間、か?」
理解した瞬間、息が詰まる。
森の外から音がする。
聞いたことのない、機械が動いているような、鉄が擦れているような騒がしさ。
ここは、もう。
俺の知っている“時間”じゃないーー
感想、批評をくれたら作者が嬉しいです




