第十話 泥中の狂気
ーー8時03分・通学路
昨夜の余韻が、まだ胸の奥に残っているのだろうか。他三人の都合により、今日は二人だけの投登校だ。
隣を歩くつるの横顔は、これまでの氷のような硬さを失い、どこか柔らかな光を帯びていた。
その変化を、ほんのわずかに好ましく思う。
ーー次の瞬間だった。
「……浦島さん」
つるの声が、鋭く切り替わる。
反射的に顔を上げる。
「……あれを」
指差す先。
通学路の象徴とも言える煉瓦造りの銀行が
ーー“崩れていた”。
否、崩壊ではない。
溶けている。壁も、柱も、窓も。
その全てが輪郭を失い、粘性を帯びた"何か”へと変質し、ゆっくりと地面へと垂れ落ちている。
熱はない。煙も、炎もない。
ただーー存在そのものが、形を保てなくなっている。
足元に広がるそれを踏みかけ、靴裏がぬめりを帯びた。
腐臭が、遅れて鼻を刺す。
「……異能ですね。それも……かなり悪質な部類です」
つるの声は、完全に戦闘時のそれへと戻ってい
た。
崩れた壁の奥。
かつて金庫だった場所からは、黒く濁った泥が溢れ出し、紙幣も宝石も、価値を失った塊として路面に貼り付いている。
救いがない。これは破壊ではない。
ーー価値そのものの"否定”だ。
野次馬の気配が近づく前に、俺たちは無言でその場を離れた。
ーー12時40分・昼休み
『二年一組 織代、二年三組 浦島。至急、職員室へお越しください』
放送が流れた瞬間、嫌な既視感が背筋を走る。
昼休みの呼び出しに、ろくな思い出はない。
職員室の扉を開けた先にいたのはーー
人の形をした“圧力”だった。
「……遅かったな、浦島。それに“鶴”のお嬢さんも」
静かに立ち上がる男。久鬼點魁。
整った顔立ち。無駄のない所作。腰の刀。
そのすべてが“完成されている”のにーー
何かが決定的に、人ではない。
視線だけで、空気が軋む。
その隣では、桃城燐が椅子に金棒を立てかけ、退屈そうにスマホをいじっていた。
「事件の概要を説明する」
久鬼は淡々と写真を広げる。
そこに映っていたのは、今朝の“あの光景”だった。
「今回の犯人と思われる人物は二名」
指が、資料をなぞる。
「触れたもの全てを泥へと変質させる男ーー灰山枯三」
ページがめくられる。
「そして、空間そのものを切断する少女ーー鋏口鈴」
言葉が落ちるたびに、空気が重くなる。
「奴らの目的は不明。だが一つだけ確実なことがある」
久鬼の視線が、わずかに鋭くなる。
「この街“価値”が、書き換えられようとしている」
沈黙。
それを破ったのはーー
「講釈はいいだろ」
燐だった。
金棒を肩に担ぎ、不敵に笑う。
「行こうぜ。泥だろうがなんだろうがーーぶっ漬せば終わりだ」
「……単純で助かる」
久鬼が小さく息を吐く。
「浦島、織代。準備はいいな」
答えは、必要なかった。
ーー14時15分・銀行跡地
現場は、朝よりも“進行”していた。
泥は広がり、建物だった名残すら曖昧になっている。
「うわ……マジで全部泥じゃん」
燐が金棒の先で突く。
それは生き物のように絡みつき、熱を吸い取るように粘りついた。
「……いや、違うな」
俺は視線を奥へ向ける。
「こっちは、泥じゃない」
金庫室の扉。
鋼鉄の塊は原形を保っていた。
だがーー
切れている。
あまりにも滑らかに。
あまりにも正確に。
そしてその断面の向こうには何もない。
ただ“空白”だけが、口を開けている。
「空間を.....切り取ったの......?」
つるの声が震える。
気づけば、彼女の指が制服の袖を掴んでいた。
「来るぞ」
久鬼の一言。
その瞬間ーー
泥が、止まった。
音が消える。
風も、気配も、すべてが凍りつく。
次の瞬間。
ぶくり、と。
足元の泥が膨れ上がった。
「いやぁ……初めましてですかな」
それは最初、“形”を持っていなかった。
ただの泥の塊。
だが、ぐにゃりと歪みーー
目が、口が、顔が浮かび上がる。
「“灰色の課長”の、使い走りども」
和装の老人の顔が、泥の中からせり上がる。
笑っている。
だがその笑みは、人間のそれではない。
「狂四郎に伝えておくれよ」
泥が、蠢く。
腕の形を取り、数を増やし、広がっていく。
「自分が咲かせた“花”の下にーーどれだけ死体が埋まってるのか、ちゃんと教えてやったのかってなぁ!」
地面が裂けるように、泥の腕が噴き上がる。
それは、質量の暴力だった。
逃げ場はない。
回避も、防御も、意味をなさない。
ただーー
飲み込まれる。
ーー新たな戦いは、
すでに、足元から始まっいた。




