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幽霊雨とでも言おうか。降っているはずなのに当たらない雨は、しかし周囲の草木は確かに濡れていて、濡れていないのは僕と祠だけ。もしかすると世界が幽霊になってしまったのだろうか。あるいは僕が……。
そんなもの想いに耽っていると、僕の通って来た獣道から、濡れた地面を踏む音が聞こえてきた。
ぴしゃん。あるいはびしゃんといった音を鳴らして現れた。
それはずぶ濡れの女だった。両手でなにかを抱えるように持っていて、手には赤い唐傘を下げていたが、その傘を差したりなどはしていない。
死装束とでも言おうか。真っ白な着物は、跳ねた泥で黒け汚れていた。
女の顔は見えない。顔は下を向いていて、その両手に持ったものに覆い被さるほどで、前などほとんど見えないくらいの前傾姿勢で歩いていた。
自身の身体で覆うように抱えたものを、豪雨から守っているのだろう。
女は雨に濡れ、自身の身体に着物が張り付くのも気にせず、ゆっくりと、割れ物でも運ぶようにゆっくりと歩いて、祠の前で止まった。
横から見た女の顔は、濡れた前髪と、その前傾姿勢のせいで見えない。
「……ごめんなさい」
女は今にも消え入りそうなほど小さくてか細い声で呟くと、祠の前にその手に持っていたものを優しく。
スローモーションかと疑うほどにゆっくりと置く。
そのものを僕が見る前に、唐傘をそのものを雨から守るために差し置くと、やって来た方向とは逆の道を行きとは逆に、がむしゃらに走り去ってしまった。
走り慣れていないのか、何度も転んでは、着物の元の色すらわからないくらいに汚れたまま行ってしまった。
僕は走り去った女のいた獣道から視線を祠の前に戻す。
その傘の中を覗こうと手を伸ばす。
当たっていないはずの雨が妙に冷たく感じて。指の先がシンと冷えて。
そう。ただ、僕は一体なにを運んでいたのか。そうあの女が運んで。運んでいたのは……。
ただ、ほんの少しの好奇心だったのに。
祠の前、唐傘の中にあったのは小さな籠だった。布がかけられているが、中になにかがある。いや、いる。
僕はそれを見てはいけない。そう心が警報を出す。
思い出してはいけない。知ってはいけないと。
心に反して脳は所々鍵の壊れた棚を、ひっくり返しながら漁って探す。
ふと中のなにかが脈打ち、上にかけられた布が捲れた。
それと僕の目が合うと同時に、僕の既に壊れて一生開く筈のなかった棚の扉が勢いよく開け放たれた。




