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黒い目と目が合う。そこにいたのは赤子だ。黒髪黒目。僕に瓜二つの。
ひらりと風が吹き、布の上に置かれた紙切れが揺れる。
手書きのメモのようだ。震えた文字でそこにはこう書いてあった。
『月神様。この子を救って下さい。私の愛しい子タイヨウ』
この赤子は。僕だ。
このやけにリアリティがあってびしょ濡れの幻覚は、この祠に残された、のこ場所に刻まれた記憶のようなものなのだろう。
「まったく。今度は子供か……」
ふと、聞き覚えのある。夜を照らす穏やかな光のような声が聞こえたと同時に、僕は煙となって消えてしまった。
一際大きく響いた花火の音で、僕は目を覚ました。
なにか不思議な夢を見た気がするが、胡乱とした意識の中で、そんな記憶はすぐに両手をすり抜けてしまった。
祠の側で僕はただ座しているのもなんで、手持ち無沙汰に、ポケットに入ったままだった犬のプラモデルを組み立てることにした。
そうだ。せっかくだからこの花の種も植えてみよう。
ツキも花は好きだろう。きっと起きて花が咲いているのが見えれば、嬉しいだろう。
僕は一人呟くが、その言葉は周囲の木々に吸い込まれていく。
僕はふと空を見上げた。清々しいまでの青空が今はやけに遠く感じた。
「よぉ、待ち人は……どうやらまだみたいだな」
ツキの像の少し手前に置かれた犬のプラモデル。
地面には何本ものチューリップが明るい色の花を咲かせていた。
僕はチューリップに囲まれた祠の前でただ、ひたすらに座り込んでいた。
雨も風も雪も、今の僕には関係ない。最早動くことすら億劫で、ただひたすらに待ち続けていた。
セウストが来なければこのまま何十年、何百年とそのままで。
あの頃と変わらず、僕はここでツキに拾われるのを……。
はて、あの頃とは……?
思い出そうにも、その棚は既に壊れていて、いくら鍵を探しても無駄だった。
とにかく、僕はセウストがやって来て初めて、もう十ヶ月も経っていたことに気が付いた。
「セウストさん」
「タイヨウ。ここで待つのも良いが、せっかくなら何処か出かけたらどうだ? ずっと座ってるのも辛いだろ」
「どこかに……」
そういえば、ツキが最後に言っていたような。
私が起きたら、あなたの成長した姿を見せて。ね?
ここで一人、ただ座って待っているのが、僕の成長した姿と言って良いのだろうか。
「セウストさん、僕旅に出るよ」
「おっ本当か?」
地面に落ちていた声が跳ねて空へと上がる。
「うん。もっと色々な世界を見て、ツキに会ったときに、僕が一人前になった姿を見せたいんだ」
僕は根を張るほどに重かった腰を上げた。軽くズボンを叩き、空を向く。
清々しいまでの青空がやけに近くて、眩しかった。
「そんじゃ、せっかくだし俺とどっか行くか? ちょうど行きたい場所があるんだよ」
セウストは舌を素早く回して話す。それに対して僕はセウストの方を振り向いて、首を横に振った。
「今度は、誰にも頼らないで頑張りたいんだ。もし会ったらその時はまたお話しよう」
「そうか……分かった。また、必ず会おう」
「うん。またね」
セウストは尾を引きながらも頷き、納得して今度は一回だけ振り返って、来た道を歩いて行った。
「さて、僕も行こうかな」
向かうのはセウストの向かった方向とは逆の獣道。蜘蛛や永塔婆とは逆方向だ。
「行って来ます」
僕は最後に一度だけ祠を振り返ると、獣道を歩き始めた。
リュックも同行人も居ない。当然目的地なんてない。放浪するように世界を回ろう。それで戻ったとき、ツキに話そう。そうだ。そのためにまずはメモでも買おう。放浪記を書くんだ。そうすればきっと忘れない。
僕はこの先に街があることを祈りながら、一人、獣道を歩き始めた。




