05. 腰痛のおかげで覚醒したフロル
※ 暴力的なシーンがありますのでご注意ください。
※ 2026/8/12 修正済み
◇ ◇ ◇ ◇
残暑厳しい午後──。
フロルはベランダの二階を掃除していた。
同時にクッションや枕なども、天気の良い日だったので一緒に干した。
両脇にクッションをかかえながら、フロルは階段を降りようとした、その時だった。
ラーラが階下から登ってきて、フロルと交差した。
フロルはラーラに会釈をしようとしたが、ラーラが無視をしてあろうことか、フロルの足に自分の片足を引っかけた。
「キャアーー─ッ!」
フロルの身体はバランスを崩して、そのまま階段をゴロゴロと転がり、あっという間に階下まで落ちてしまう。
頭を打ったのか、そのままフロルはピクリとも動かなかった。
「キャーーッ、フロル様──!」
階段から落ちたフロルの姿を見たメイドが叫んだ。
「あら~? やだ、別にちょっとからかっただけなのに……」
と聞こえた声は階上のラーラだった。
流石のラーラも「少しやりすぎたかな」と 舌をだしながらも、フロルの無様な姿を見て、楽しそうに笑っていた。
◇ ◇
その日からフロルは何日も寝たきりとなった。
足と腰をひどく痛めたのだ。
二、三日するとフロルの足の打撲の内出血と腫れはひいて動かせたが、腰は打ちどころが悪かったのか、ぴくりとも動かせなかった。
一応ジャンヌはフロルがまったく動けないので、渋々医師に診せた。
この時代、整骨院の医師はほとんどが錬金魔術師だったので、魔石線画板を持参してフロルの腰を撮った。
「──これは酷いな。腰椎を二、三本骨折している。まだ若いから自然に骨は付くだろうが、当分はコルセットを就寝の時も付けたままにして、固定副木の代わりにしなさい。──最低でも二カ月くらいは安静にした方がいいでしょう」
と医師はフロルがそうとう重症だと診断した。
医師の診断に大いに腹を立てたのはジャンヌである。
「ラーラ、あんたがフロルに足を引っかけたせいで、骨折しちゃったじゃないの!」
「ええ、酷いお母様! あたしはちょっとからかうつもりだっただけよ!」
ラーラは自分がジャンヌに叱られるとは思わず意外な顔をした。
ジャンヌはフロルが動けなくなると、屋敷の掃除や雑用が出来なくなる事に腹を立てていた。
「馬鹿だね~お前は。フロルはこれでもけっこう働くんだよ。屋敷の掃除や洗濯は誰が代わりにするっていうの!」
「そんなの知らないわ。だったら代わりのメイドを雇えばいいじゃないの」
「呆れた、雇うという事は金がかかるんだよ! まったくあんたって子は本当に馬鹿だね」
ジャンヌはラーラに怒るというよりは、フロルが動けなった事に無性に腹を立てていた。
フロルが寝たきりになれば、屋敷の掃除や雑用の為にメイドを雇わなければならない。フロルならただで済むのに、無駄に金がかかるのが尺に障るのだ。
「ああ忌々しい。これではフロルは働けないじゃないか。まったくなんてことだろう。働かない奴に食べさせるほど忌々しい事はないわ」
ジャンヌはとても悔しかったが、屋敷が埃だらけになるのも我慢ができず。
仕方なくフロルの代わりのメイドを三人も雇った。
最初は一人雇ったが、屋敷内は広すぎてメイド一人では、とてもではないが掃除が行き届かなかった。
つまり今までフロルが一人で朝から晩まで黙々と掃除したおかげで、屋敷がピカピカだったと、ようやく分かったのだ。
「まったく、フロルならただで済んだものを。メイドに無駄なお金を使うなんて……腹が立って仕方がないったらありゃしない!」
ジャンヌは内心、娘のラーラを一発殴ってやりたい気分だった。
「ほら、もたもたしてないで、とっとと廊下を掃くんだよ、このノロマ!」
「はい奥様!」
と否応なしにフロルの代わりに、ジャンヌは雇われたメイドたちに罵声を浴びせた。
──この女主人は、本当に貴族の娘なのか?
なんとまあ人使いが荒い女だろう。
雇われたメイドたちは内心、ジャンヌの執拗な虐めでもいえる罵声にゾッとした。
◇ ◇
一方フロルだが、ベッドの中で毎日悪戦苦闘していた。
腰が尋常でないほど痛かったからだ。
「あっつ!」と悲鳴を、あげるフロル。
少しでも体制を変えるとズキッ!と激痛が全身に走った。
──ひゃあああ、痛くて痛くてたまらない!
フロルはジャンヌたちがいなければ『痛ぁぁああーっ!』と大声で屋敷中に叫び出したかった!
おお、なんて事でしょう。
腰骨が折れると、こんなに酷く痛むなんて!
知らなかった、腰ってすごく大切なものだったのね。
フロルは生まれて初めて腰骨を折ったせいで、腰のありがたさが痛いほど分かった。
医師は痛み止めの薬を処方してくれたが、三日分しかもらえなかった。
ジャンヌが「薬代が高すぎる」といって、おざなり程度しか薬を購入しなかったのだ。
薬は食後一日三回とあったが、フロルは一食しか食べさせてくれなかったので、薬を九日間、毎日飲んだ。
痛み止めが少しは効いたのか、最初の激痛よりは大分落ち着いてきた。
◇ ◇
二週間ほどすると、フロルはなんとか腰を屈んで、四つん這いになって部屋のトイレには一人でいけるようになった。
それまでは、新しく入ったメイドの子が毎日オマルを宛がって、フロルの汚物を処理してくれたのだ。
フロルはとても恥ずかしかったが、その新人のメイドに心から感謝をした。
更に一カ月もすると、フロルは壁づたいに歩けるようになったが、腰痛は治らなかった。
ひと足歩く度にズキンズキンと腰に激痛が走る。
──痛い!痛い!痛い!!
痛すぎて発狂しそう!
くう~! 毎日がとても痛くて痛くてたまらない!
フロルは痛みに耐えながら、必死になって歩行訓練をした。
いつしか、自分の思考停止だった真っ白な気持など、どこかへすっ飛んでしまっていた。
◇
そう、これまでフロルは『心の苦しみより辛いものはない』とずっと思っていたが、それは一概には言えないと気付いた。
実際にこうして骨折した激痛を経験して分かった。
『この痛みに比べたら、精神的な苦痛など気の持ちようで、どうとでもなる!』
と、現実的な思考が、生まれた初めてフロルに芽生えたのだ。
──私、凄〜くお馬鹿さんだったわ。
この数カ月間、一体何をしていたのかしら?
お父様が船の転覆で行方不明と知って絶望して、乳母のサマンサがいなくなってやけになったんだわ。
──そうよ!
当たり前にあった恵まれた生活を、全て失ったと私は絶望したんだわ。
フロルはベッドの中で、これまでの自分の気持ちを冷静に整理した。
だけどフロル、今のあなたのこの姿はどう?
飛び上がる腰の激痛に比べたら、そんなものは|どうでもよくなってきた!
何より、これまで私は普通になんなく歩けてたわ。
この足で立って、歩くのはしごく当然だと気にもしなかった。
だけど違った!
「歩けるのは当たり前なんかじゃない!」
フロルは天井を向いて、誰ともなく問いかけるように。
フロルは決めた!
まずは一人で歩けるようになろう!
私の腰はまた治るとお医者様が仰ったわ!
また歩ける!
また走れるのよ!
フロルは己に鼓舞するように何度も何度も念じた。
さらにフロルは、あの別れの日にサマンサがいった言葉をふと、思い出した。
『春の大嵐が吹き荒れようとも、春一番は必ず過ぎ去るものです』と。
ふふふとフロルは微笑した。
──今はどう?
もう春なんてとっくに過ぎて、季節は秋になってるわ! それどころか、私の鼻水が凍っちゃうくらい、寒い寒い冬がもうすぐ来る。
──フロル、貴方いつまでもメソメソしてるのよ!
ストーブすらないこの部屋。
このままここにいたらあなた、凍えて死んじゃうわよ!
フロルの自問自答は終わった。
ようやく腰痛から、自分の為すべき道を見い出した。
これまでフロルの白いぼやけた膜がかかったような、はしばみ色の瞳がぱあっと輝き始めた。
そのまま宝石のトパーズのように橙色の光彩が瞳に戻ってきたのだった。
そしてフロルは決心した!
──まずはこの屋敷から出ようと!
◇ ◇
更に一カ月が過ぎた夜更けの事だった。
フロルは月が陰る淀んだ早朝に、屋敷の裏門から誰にも知られずに出て行った。
ようやく小鳥のフロルは、窮屈な鳥籠から大空めがけて飛び立つことが出来た朝だった。




