蛍と貫之④
ロビーに降りた。あちらの方ですと、受付の府警から教えられた先に若い女性が立っていた。二十代後半だろう。僕より年上に見えた。細くてスタイルが良い。痩せ過ぎで頬がこけている。もう少し丸美がある方が良い。赤茶けた髪、大きな目、派手さはあるが美人だ。
「あの~隈井さんは今、係長と話をしています。僕でよろしければ、代わりに話をお伺いいたします」と声を掛けると、女性は大きな目を更に見開いて、「結構です!」と声を荒げた。
女性の剣幕に驚いた。
「では、こちらへ。隈井さん、直ぐに終わると思いますので」
女性をロビーの隅にあるミーティングコーナーに案内して一課へ戻ることにした。途中、階段で隈井さんとすれ違ったので、女性をミーティングコーナーに案内しておいたことを伝えた。
「ありがとう」隈井さんは言葉少なだった。
――隈井さんって、確か、彼女、いたよね?
「他人のプライバシーに立ち入ってはダメだよ」
隈井さんには彼女がいた。大学のゼミの後輩で、学生時代からの付き合いだ。刑事になって忙しさから会えない時期が続き、一度は分かれたが、数年前に再会し、また付き合い始めたという話を隈井さんから聞かされたことがある。確か奈緒さんという名前で、隈井さんと一緒のところを、何度か見たことがある。
三十分ほどして隈井さんが戻って来た。
「誰ですか?」と聞きたかったが、我慢した。
「係長の指示だ。七軒屋に向かうぞ」と隈井さんが言う。
僕らは再び七軒屋を目指した。
車に乗り込んでから、しばらく沈黙が続いたが、隈井さんから「妹だ。奈緒の――」と話し始めた。奈緒さんに、あんなに奇麗な妹さんがいたとは知らなかった。
「参った」
珍しい、隈井さんがプライベートを話題にしたがっている。聞いてもらいたいのだ。
「何かあったのですか?」
隈井さんの誘いに乗った。
「彼女を抱いた」と隈井さんはドキっとする台詞を口にした。
「えっ⁉ 彼女って、妹さんを・・・ですか?」
「そうだ。修羅場だ」
「彼女は知っているのですか?」
「さあな。美緒が言ったかもしれない」
妹さんは美緒さんと言う名前らしい。
「でも、どうして?」奈緒さんを裏切るようなことをしたのだろう。正義感の強い隈井さんらしくない。
「薄々、あの子の気持ちには気がついていた」
美緒さんは奈緒さんの三つ下だと言う。隈井さんが奈緒さんと付き合い始めた時には、まだ高校生だったことになる。その少女も何時の間にか三十路間近、隈井さんは奈緒さんとの再会により美緒さんとも再会することになった。
「あなたのことが好きなのと、夜中に突然、アパートを訪ねて来た」
自慢で言っている訳ではない。表情が苦しそうだ。
「彼女の気持ちに気がついていなかったかというと嘘になる。彼女の視線の激しさに、思わず奈緒の顔色を伺ったことがあった。仲の良くない姉妹。そう聞かされていた。子供の頃から、彼女はお姉さんのものを何でも欲しがったそうだ。彼女が俺に向ける熱い視線は、お姉さんのものを欲しがる子供っぽい心理なのだと思っていた」
随分、生々しい告白だ。だが、僕に聞いてもらいたくて喋っているのだ。黙って隈井さんの話に耳を傾けることにした。
「あの日は小雨が降る寒い夜だった。突然、美緒がアパートを訪ねて来た。俺のアパートを知っていたことが意外だった。流石に部屋に上げるのはまずいと思った。だけど、小雨の降りしきる中、傘もささずに訪ねて来たようで、彼女の髪がしっとりと濡れていた。そのまま追い返す訳にも行かず、部屋に上げてしまった。彼女は小刻みに震えていた。このままじゃあ、風邪をひくと、バスタオルで彼女の濡れた髪を拭いた。すると突然・・・俺のことを・・・好きだと言って・・・」
隈井さんが口をつぐんだ。後のことは想像がつく。だけど、こういうことに疎い僕は何と言ったら言いのか分からずに、ただ黙っているしかなかった。
僕の沈黙を無言の圧力だと感じたのか、隈井さんがあきらめたように口を開く。「彼女が抱き着いてきた。小雨のそぼ降る夜は、人恋しくなってしまう。俺は・・・俺は衝動に押し流されるようにして、彼女を抱き締めてしまった。俺たちは一線を越えてしまった。
俺たちの関係の変化を奈緒が感じ取っているような気がする。もともと大人しくて感情を滅多に表に現さなかった奈緒が、最近、俺の前でよく笑い、よく怒り、よく泣く。貴方と一緒になれないなら、死んでやる。そう言われたこともある。美緒からも、会いたいというメールが頻繁に届くようになった。俺は・・・どうしたらよいのか分からない。全て、身から出た錆だということくらい自分でも分かっている。自業自得だ。だが、俺には奈緒と美緒のどちらかを選ぶことなどできない。我ながら優柔不断だと思う。だが、どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てるということだ。どちらかを傷つけてしまう。そんなことしたくない。でも今のままだと、どちらかが暴発してしまいそうで怖いのだ」
隈井さんが苦しそうに呟いた。追い込まれているようだ。正直、僕には隈井さんの苦しみは理解できない。だけど、隈井さんが僕なんかに、こうして苦しい胸の内を打ち明けてくれている。そのことが嬉しかった。
黒枝さんの昔話を聞き入っていたのは、そういう事情があったのだ。何処か、今の心情に合致するところがあったのだろう。
だが、広大君は手厳しい。
――隈井さんは身勝手だよ。誰も選ばないということは、誰も幸せになれないってことだ。




