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第九章 依存は恋か、それとも呪いか



 ベルンフェルトの朝。


 私は目を覚ました瞬間、自分の腕に妙な重みがあることに気づいた。


「……ん?」


 視線を下ろす。


 そこには、銀色の髪があった。


 エルザが、私の腕を抱き枕みたいにして眠っている。


「…………」


 昨夜は確か、「悪夢が怖いから隣にいてほしい」という話だった。


 隣に座っていただけのはずだ。


 なのに、どうしてこうなった。


 彼女は私の腕に頬を押しつけたまま、すぅすぅと穏やかな寝息を立てている。


 王都で信徒たちに囲まれていた気高い聖女はどこへ行ったのか。


 完全に安心しきった猫みたいな顔だった。


「エルザ……朝だよ」


 小声で呼ぶ。


「ん……レイラ……」


 彼女は寝ぼけたまま、さらにぎゅっと抱きついてきた。


 柔らかい感触と温かさが腕に伝わって、心臓が変な音を立てる。


「ちょ、近い近い近い」


「あと五分……」


「五分って何。ここ宿じゃなくて私の家なんだけど」


 結局、完全に目を覚ましたエルザが自分の体勢に気づいたのは、それから数分後だった。


「…………」


 彼女は固まった。


 次の瞬間。


「きゃあああああっ!?」


「わあっ!?」


 ベッドから転げ落ちそうな勢いで飛び起きる。


 銀髪がぶわっと広がった。


「ななななな何で抱きついてるのよ私!?」


「それはこっちが聞きたい!」


「違うの! これは、その、寝ぼけて……!」


「うん、寝ぼけてたのは分かるから落ち着いて!」


 朝からものすごく騒がしい。


 エルザは顔を真っ赤にしたまま毛布にくるまり、ちらちらこちらを見ていた。


「……変なこと、してないわよね?」


「してないよ。抱き枕にされただけ」


「それ十分変じゃない!」


 そのまましばらく悶えていたが、やがて諦めたように額を押さえた。


「もう……聖女としての威厳がどんどん失われていく……」


「今さら?」


「今さらって言わないで!」


 私は笑いながら台所へ向かった。


 こうして騒げるくらいには、エルザの体調は回復してきている。


 それ自体は嬉しいことだった。


     ◇


 朝食の後、私は薬草棚の整理をしていた。


 エルザは窓際の椅子に座り、ぼんやり外を眺めている。


 最近の彼女は、ふとした瞬間に考え込むことが増えた。


「どうしたの?」


 声をかけると、エルザは少し迷ったように視線を向けてくる。


「ねえ、レイラ」


「うん」


「私、あなたに依存してるのかしら」


 手が止まった。


 ずいぶん直球だ。


「急にどうしたの」


「だって、あなたが浄化してくれないと不安になるの」


 エルザは自分の胸元を押さえる。


「身体の調子だけじゃない。夜も、あなたが近くにいないと落ち着かない」


 その言葉に、私は少しだけ複雑な気持ちになった。


 確かに《黒蝕の残滓》の影響で、私の浄化が必要なのは事実だ。


 でも、それが「私自身を必要としている」のか、「呪いを抑える手段を必要としている」のかは分からない。


 私は慎重に言葉を選んだ。


「それは、呪いのせいもあると思う」


 エルザの肩がわずかに揺れる。


「……そうよね」


「ごめん」


「謝らないで。私もそう思うもの」


 彼女は苦笑した。


「命を救ってもらって、苦しみも和らげてもらってるんだもの。吊り橋効果みたいなものかもしれない」


 その言い方が妙に寂しそうで、胸がちくりと痛む。


 私は薬草を置き、エルザの向かいに座った。


「でも、依存してるかどうかなんて、今すぐ結論を出さなくていいんじゃない?」


「……そうかしら」


「うん。今はまず、ちゃんと元気になることを考えよう」


 エルザはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「あなたって、本当に優しいわね」


「普通だよ」


「普通の人は、追放した相手をここまで面倒見ないと思う」


 それは否定できなかった。


     ◇


 その日の午後、私は薬草採取のため近くの森へ向かうことにした。


「すぐ戻るから、無理しないで休んでて」


「分かった」


 エルザは素直に頷いたが、どこか落ち着かない様子だった。


 私は気づかないふりをして家を出る。


 森の中で月光草を摘みながらも、なんとなく胸がざわざわしていた。


 エルザを一人にして大丈夫だろうか。


 そんなことを考えている自分に苦笑する。


「私も結構、過保護になってるなぁ」


 一時間ほどで採取を終え、家へ戻る。


 扉を開けた瞬間、私は異変に気づいた。


「エルザ?」


 返事がない。


 居間へ入ると、エルザが椅子に座ったまま俯いていた。


 肩が小刻みに震えている。


「どうした!?」


 駆け寄って顔を覗き込む。


 彼女の額には冷や汗が浮かび、呼吸が浅くなっていた。


「レイラ……」


 掠れた声。


「胸が……苦しくて……」


 私はすぐに彼女の胸元へ手を当てた。


 黒い魔力が再び強く脈打っている。


「まさか、たった数時間で……」


 《黒蝕の残滓》が、私の浄化効果が薄れた途端に活性化している。


 エルザは震える指で私の服を掴んだ。


「あなたがいなくなったら、急に怖くなって……そしたら、また痛くなって……」


 その声には、身体的な苦痛だけではない不安が混じっていた。


 私は急いで浄化液を準備し、彼女に処置を施す。


 数分後、黒い靄が薄れ、エルザの呼吸が落ち着いていった。


「はぁ……っ……」


「大丈夫?」


「……うん」


 彼女は私の手を握ったまま離さない。


 白く細い指が、まるで溺れる人みたいに必死だった。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも、あなたを困らせてる」


 私はその手をそっと握り返した。


「困ってないよ」


 嘘ではない。


 心配ではある。


 でも、嫌だとは思わなかった。


     ◇


 夕暮れ時。


 エルザは少し元気を取り戻し、ソファに並んで座っていた。


 窓の外では夕日が薬草畑を橙色に染めている。


 しばらく沈黙が続いた後、エルザがぽつりと呟いた。


「さっき、すごく怖かった」


「うん」


「痛みも怖かったけど、それ以上に……あなたが戻ってこなかったらどうしようって思った」


 私は静かに耳を傾ける。


「王都で苦しんでいた時、夢の中に何度もあなたが出てきたの」


 エルザは膝の上で指を絡める。


「あなたがいると楽になって、いなくなるとまた苦しくなる。だから最初は、『これは呪いのせいだ』って思ってた」


 彼女はゆっくり顔を上げた。


「でも今日、分からなくなった」


 夕日を受けた銀色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。


「あなたが森へ行っていた間、ずっと考えていたの」


 エルザは小さく息を吸った。


「もし呪いが完全に治ったとしても、私はあなたと一緒にいたいと思うのかって」


 心臓がどくりと鳴る。


「……それで?」


 エルザは少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「答えは、たぶん『はい』だった」


 私は言葉を失った。


 彼女は慌てて続ける。


「もちろん、これが恋なのか、感謝なのか、依存なのか、まだ自分でも分からないわ」


 頬がほんのり赤く染まっている。


「でも、あなたと笑ってる時間が好きなの」


 胸の奥が、じんわり熱くなる。


 私は何か言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。


 そんな私を見て、エルザがくすっと笑う。


「ほら、また慌ててる」


「慌ててない」


「耳まで赤いけど?」


「夕日のせいです」


「さっき私が言った言い訳と同じじゃない」


 二人で顔を見合わせ、同時に吹き出した。


 笑い声が小さな家に広がる。


 その温かさが、やけに心地よかった。


     ◇


 夜。


 眠る前の浄化処置を終えた後、エルザはベッドに入ってから小さな声で言った。


「ねえ、レイラ」


「ん?」


「今日は、隣にいてって言わなくても、いてくれる?」


 私は少しだけ考えるふりをした。


「……しょうがないなぁ」


「ふふ」


 エルザは嬉しそうに毛布の端を持ち上げる。


 私はその隣に腰を下ろした。


 肩が軽く触れ合う。


 以前なら、こんな距離にいるだけでお互い真っ赤になっていただろう。


 でも今は、不思議と落ち着いていた。


 エルザはそっと私の袖を摘まむ。


「レイラ」


「なに?」


「まだ答えは分からないけど」


 彼女は目を閉じながら、静かに続けた。


「分からないままでも、もう少し一緒にいてほしい」


 私はその横顔を見つめ、そっと微笑んだ。


「うん。君が元気になるまで、ちゃんと隣にいるよ」


 その言葉を聞いたエルザは、安心したように小さく笑った。


 月明かりが窓から差し込み、寄り添う二人を淡く照らしている。


 依存なのか、感謝なのか、それとも恋なのか。


 まだ誰にも分からない。


 けれど少なくとも、二人の距離が「仲間」だった頃よりずっと近くなっていることだけは、もう疑いようがなかった。

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