第八章 聖女、更生プログラム
「……というわけで、しばらく安静にしてください」
私は腕を組み、ベッドの上で正座しているエルザを見下ろした。
ここはベルンフェルトの外れにある、小さな借家だ。
宿屋《野兎亭》の女将さんが「薬草を乾燥させるなら広い方がいいでしょ」と紹介してくれたもので、薬草棚と簡易調合台、それからベッドが二つ置ける程度の質素な家だった。
エルザは借りてきた部屋着姿で、肩まで下ろした銀髪を揺らしている。
王都では絶対に見られない、妙に生活感のある姿だ。
「安静って言っても、私は聖女なのよ?」
「今は病人です」
「うっ……」
言い返せないらしい。
私は調合台の上に並べた小瓶を指差した。
「《黒蝕の残滓》は完全には消えてない。君の浄化魔法を使いすぎると、逆に呪いが刺激される可能性がある」
「そんな厄介な呪いだったなんて……」
エルザは肩を落とした。
王都を出る前、大聖堂の老司祭グレゴリウスからも同じような説明を受けている。
普通の浄化では消えない。
むしろ強い聖属性に反応して増殖する。
だからこそ、私の【状態異常反転】による“反転浄化”が唯一有効だった。
「つまり、これからは定期的に私が処置する必要がある」
エルザの耳がぴくりと動く。
「その……処置って」
「浄化液を使った口腔浄化と、魔力循環の安定化」
「口腔浄化……」
彼女の頬がじわじわ赤くなっていく。
「な、なんでそんな言い方だけ妙に丁寧なのよ!」
「聖女様に『うがい』って言うと怒りそうだから」
「怒らないわよ!」
「じゃあ『特製マウスウォッシュ』」
「それが一番危険な響きなのよ!!」
朝から元気だなぁ。
少し前まで死にかけていたとは思えない。
私は苦笑しながら薬草茶を差し出した。
「はい、まずはこれ飲んで」
エルザは受け取ると、恐る恐る匂いを嗅ぐ。
「……変なもの入ってないでしょうね」
「失礼だなぁ。今回は普通の薬草茶です」
「今回はって何!?」
完全に警戒されていた。
まあ仕方ない。
◇
午前中、私は薬草の仕分けをしていた。
乾燥棚に月光草を並べ、毒消し草の根を刻み、保存用の魔法紙に包んでいく。
その間、エルザは椅子に座ってぼんやり眺めていた。
「……レイラって、本当にこういう作業好きよね」
「落ち着くんだよ。戦闘よりずっと性に合ってる」
「だから《暁の星》の縁の下の力持ちだったのね」
その言葉に、手が一瞬止まる。
エルザも気づいたらしく、少し気まずそうに視線を逸らした。
「ごめんなさい。また思い出させてしまった」
「いや、大丈夫」
私は笑って肩をすくめる。
「もう怒ってないし」
「……本当に?」
「うん。最初はちょっとへこんだけど」
「ちょっとじゃ済まないでしょう……」
エルザが申し訳なさそうに呟く。
私は薬草を刻みながら続けた。
「でも、君が生きててよかった。それが一番大事だから」
その瞬間、エルザがじっとこちらを見ている気配を感じた。
顔を上げると、彼女は何か言いたげに唇を開きかけ――結局閉じた。
代わりに、小さく微笑む。
「……ずるいわね、あなた」
「え?」
「そういうところよ」
意味を聞こうとしたが、彼女は「なんでもない」と誤魔化してしまった。
◇
昼過ぎ。
最初の正式な浄化処置を行うことになった。
私は調合台の前で小瓶を準備する。
エルザはベッドの端に座り、妙に緊張していた。
「そんなに構えなくても大丈夫だって」
「だって、前科があるじゃない」
「前科って言わないで」
私は高濃度浄化液を水で薄め、銀のコップに注いだ。
ほのかに薬草の香りが広がる。
「今回はちゃんと飲用規格だから安心して」
「飲用規格って何よ……」
エルザは顔を赤くしながらコップを受け取った。
「じゃあ、口に含んで十秒」
「十秒ね……」
彼女は覚悟を決めたように目を閉じ、液体を口に含む。
頬が少し膨らむ。
その姿が妙に可愛くて、私は危うく吹き出しそうになった。
「……何笑ってるの」
口をゆすいだまま、じとっと睨まれる。
「いや、聖女様が真剣にうがいしてるのが新鮮で」
「後で覚えてなさい……!」
十秒後、エルザは洗面器に吐き出した。
次の瞬間。
彼女の身体から、淡い黒い靄がふわりと立ち上る。
「っ……!」
エルザが胸を押さえた。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫……でも、すごい……」
彼女は驚いたように自分の喉に触れる。
「息が楽……」
黒い靄は空中で白い光に変わり、そのまま消えていった。
私はほっと息をつく。
「うん、ちゃんと効いてる」
「本当に……あなたの力、規格外ね」
「だから隠してたんだよ」
エルザはコップを見つめ、しばらく黙っていた。
そして、ものすごく小さな声で呟く。
「……爽快感も、前と同じだわ」
「聞こえてるよ」
「聞こえないで!」
耳まで真っ赤になっていた。
◇
夕方になると、エルザの顔色はかなり良くなっていた。
熱も下がり、目の下のクマも少し薄くなっている。
私は簡単な野菜スープを作りながら尋ねた。
「どう? まだ胸の痛みはある?」
「少しだけ。でも、王都にいた時よりずっと軽いわ」
「それならよかった」
食卓につくと、エルザはスープを一口飲んで目を丸くした。
「おいしい……」
「薬草を少し入れてるからね。魔力循環を整える効果がある」
「レイラって、意外とお嫁さん向きよね」
「いきなり何」
私は思わずむせた。
エルザはくすっと笑う。
「だって、料理できるし、薬の知識もあるし、面倒見がいいし」
「それ褒めてる?」
「もちろん」
真っ直ぐ言われると、逆に照れる。
食事の後、私は洗い物を始めた。
すると後ろから、そっと服の裾を引っ張られる。
「ん?」
振り返ると、エルザが少し俯いたまま立っていた。
「……今夜も、悪夢を見るかもしれない」
弱々しい声だった。
「また怖い夢?」
「うん」
王都で聞いた話を思い出す。
黒い霧。
赤い瞳。
呪いが精神にも影響を与えているのだろう。
「じゃあ、眠る前にもう一度軽く浄化しておこうか」
「それもあるんだけど……」
エルザはさらに小さな声になる。
「できれば、隣にいてほしい」
私は目を瞬かせた。
「隣って」
「べ、別に変な意味じゃないわよ!?」
エルザが慌てて手を振る。
「ただ、王都を出てからずっと一人で怖くて……」
その姿があまりにも不安そうで、私は断れなかった。
「……分かった。今日は特別ね」
「本当?」
ぱっと表情が明るくなる。
その変化があまりにも分かりやすくて、思わず笑ってしまった。
◇
夜。
二つあるベッドのうち、エルザの方に私は腰掛けていた。
窓の外では虫の声が静かに響いている。
エルザは毛布にくるまりながら、ちらちらこちらを見ていた。
「そんなに緊張しなくても」
「してないわ」
「耳まで赤いけど」
「灯りのせいよ」
絶対違う。
私は苦笑しながら、そっと彼女の額に手を当てた。
熱はほとんどない。
「うん、大丈夫そう」
「……レイラ」
「ん?」
「ありがとう」
真剣な声だった。
「助けてくれて、ここに置いてくれて、こうして隣にいてくれて」
私は少し照れくさくなって視線を逸らす。
「困ってる人を放っておけないだけだよ」
「それがあなたのすごいところなのよ」
エルザはそう言って、そっと私の服の袖を握った。
小さな子どもみたいな仕草だった。
「逃げないでね」
「逃げないよ」
その言葉を聞いた途端、エルザの表情がふっと緩む。
彼女は安心したように目を閉じた。
しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえてくる。
本当に疲れていたのだろう。
私は眠るエルザの横顔を見つめた。
王都で見せていた完璧な聖女の顔ではない。
弱くて、不器用で、でもどこか愛おしい、一人の女の子の顔だった。
「……しょうがないなぁ」
私は小さく呟き、起こさないようにそっと毛布を掛け直す。
すると眠ったままのエルザが、無意識に私の腕へ頬を寄せてきた。
「えっ」
柔らかな銀髪が腕に触れる。
心臓がどきりと跳ねた。
起こそうか迷ったが、彼女はあまりにも安心しきった顔をしている。
結局、私はそのまま動けなくなってしまった。
窓から差し込む月明かりが、寄り添う二人を静かに照らしていた。
追放されたはずの私と、追放したはずの聖女。
その距離は、いつの間にか同じベッドの上で肩が触れ合うほど近くなっていた。
そしてエルザはまだ知らない。
自分が「助けてもらっている」だけではなく、少しずつレイラそのものを求め始めていることに。




