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第七章 再会、そして土下座



 ベルンフェルトの朝は早い。


 まだ空が薄青く染まり始めたばかりの時間、私は薬草籠を背負って西の森へ向かっていた。


 朝露を含んだ空気はひんやりとしていて、肺の奥まで澄んでいく。


「今日は月光草を多めに採れたらいいなぁ」


 最近、ベルンフェルトの薬種商から定期的に依頼を受けるようになっていた。


 収入は安定し始めているし、宿屋の女将さんも優しい。


 正直、追放直後に想像していたよりずっと穏やかな生活だった。


 ……エルザのことを考えなければ。


 私は無意識に小さくため息をつく。


 あれから何度か、胸騒ぎのような感覚を覚えていた。


 王都の方角から、黒い魔力の波が微かに届く。


 もし本当に《黒蝕の残滓》なら、時間が経つほど危険になる。


「でも、もう私には関係ない……はずなんだけどな」


 そう呟いた瞬間だった。


 ガサッ――!


 前方の茂みが激しく揺れた。


 私は反射的に短剣へ手を伸ばす。


「誰!?」


 返事はない。


 代わりに、荒い息遣いが聞こえてきた。


「はぁ……っ、はぁ……っ……」


 人間だ。


 しかもかなり弱っている。


 警戒しながら近づくと、茂みをかき分けて一人の女性が現れた。


 白銀の髪。


 旅装束は泥と血で汚れ、長い耳も力なく垂れている。


 目の下には濃いクマができ、呼吸は苦しそうに乱れていた。


「――見つけた……」


 その声を聞いた瞬間、私は目を見開いた。


「エルザ!?」


 聖女は数歩ふらつき、私の姿を確認した途端、糸が切れたように膝をついた。


「レイラ……っ!」


「ちょ、ちょっと待って!?」


 私は慌てて駆け寄る。


 肩に触れた瞬間、ぞくりとした。


 冷たい。


 身体の表面は熱を持っているのに、内側に凍りつくような黒い魔力が渦巻いている。


「これ……!」


 間違いない。


 《黒蝕の残滓》だ。


 しかも、私が応急的に中和した部分を突破して、再び侵食が進んでいる。


 エルザは私の服を掴み、泣きそうな顔で見上げてきた。


「お願い……助けて……!」


 その表情は、王都で見た気高い聖女のものではなかった。


 ただ必死に救いを求める、一人の少女だった。


「落ち着いて。とりあえず座って」


 私は近くの倒木に彼女を座らせる。


 額に手を当てると、ひどい熱だった。


「こんな状態で、どうやってここまで来たの!?」


「……王都から、ずっと」


「ずっと!?」


 ベルンフェルトまでは普通に馬車でも二日はかかる。


 この状態で旅をしてきたなんて無茶にもほどがある。


 私はポーチから水筒を取り出し、エルザに渡した。


「少し飲んで」


 彼女は震える手で水を飲み、ようやく少しだけ呼吸を整えた。


 しばらく沈黙が続く。


 森の鳥の声だけが遠くで響いていた。


 やがてエルザが、小さな声で言った。


「……ごめんなさい」


 私は瞬きをした。


「え?」


「ごめんなさい、レイラ……!」


 次の瞬間、エルザは突然地面に額をこすりつけた。


「ちょっ!? 何してるの!?」


 完全な土下座だった。


 聖女が。


 王都で何万人もの信徒に敬われているエルザ・フィオレンツァが、朝露に濡れた森の地面に頭を擦りつけている。


「私、最低だった……!」


「いやいやいや、とりあえず顔を上げて! 泥だらけになるから!」


「もう泥だらけよ!」


「それはそうだけど!」


 私は半ば強引に彼女を引き起こした。


 エルザの目からは大粒の涙がこぼれている。


「大神殿で調べてもらったの……私、《黒蝕の残滓》に侵されていたって」


 胸が重く沈む。


 やっぱり。


「しかも、一度強力な浄化を受けた痕跡があるって言われた」


 エルザは震える声で続ける。


「それで、あの日のことを思い出したの」


 私は視線を逸らした。


「……ああ」


「あれ、本当に私を助けるためだったの?」


 真正面から問われる。


 もう誤魔化せない。


 私は観念して小さく頷いた。


「うん」


 エルザの肩がびくりと震えた。


「宿屋で黒衣の男を見かけたんだ。洗面台を確認したら、君のマウスウォッシュに呪い毒が入ってた」


「そんな……」


「普通の解毒薬じゃ間に合わなかった。だから……その……」


 私は耳まで熱くなるのを感じた。


「私の能力を使った」


 エルザはしばらく呆然としていた。


 やがて両手で顔を覆い、さらに泣き出した。


「私、本当にとんでもないことを……!」


「いや、普通は怒るよ! 私だって逆の立場なら絶対怒る!」


「でも命を救ってくれたのに!」


「方法が最悪だったから!」


 二人して叫んだ後、妙な沈黙が落ちた。


 そして、どちらからともなく吹き出してしまう。


「ふふ……っ」


「はは……何これ……」


 泣き笑いだった。


 ひとしきり笑った後、エルザは赤くなった目で私を見つめる。


「……どうして言ってくれなかったの?」


 その問いには、ちゃんと答えたかった。


「信じてもらえないと思った」


 私は正直に言った。


「『毒を消すために自分の尿を使いました』なんて、私でも怪しいと思う」


 エルザはぐっと言葉に詰まる。


 確かにその通りだ。


「それに、君が自分を責めるのも嫌だった」


「レイラ……」


「だから、嫌われてもいいから生きててほしかったんだ」


 エルザの瞳が大きく揺れた。


 朝日が木々の隙間から差し込み、彼女の銀髪を淡く照らしている。


 その姿はボロボロなのに、やっぱり綺麗だった。


 エルザは唇を震わせながら言う。


「私ね、追放した後からずっと体調がおかしかったの」


 彼女はぽつりぽつりと語り始めた。


 悪夢。


 胸の痛み。


 浄化魔法が効かない違和感。


 そして、どうしても消えない口臭の悩み。


 最後の部分だけ、彼女はものすごく恥ずかしそうに小声になった。


「えっと……その……最近、ちょっと息が……」


「うん」


「うんって言わないで!?」


「いや、エルフは魔力循環が乱れるとそうなるから」


「知ってるならもっと早く助けてよぉ……」


 エルザが半泣きで抗議する。


 私は苦笑しながら肩をすくめた。


「追放された身だから、呼ばれない限り行けないでしょ」


「じゃあ今、呼ぶわ」


 彼女は真剣な顔になった。


「お願い、レイラ。私を助けて」


 その言葉には、聖女としての命令は欠片もなかった。


 ただ、私を必要としているという切実な響きだけがあった。


 私はエルザの胸元に手を当てる。


 黒い魔力が脈打っている。


 かなり危険な状態だ。


「完全に治すには時間がかかる。でも、今すぐ応急処置はできる」


 エルザがこくりと頷く。


「何でもするわ」


「いや、そんな重い感じじゃなくて」


 私はポーチから小さな銀色の瓶を取り出した。


 普段、自分用に持ち歩いている高濃度浄化液だ。


 エルザは瓶を見る。


 そして数秒後、顔を真っ赤にした。


「ま、まさかそれって……」


「安心して。これはちゃんと加工済みだから」


「加工済みって何!?」


「細かいことは気にしない!」


 私は慌てて栓を開け、少量を水で薄める。


 エルザは覚悟を決めたように目を閉じた。


「……お願い」


 その姿が妙に可愛く見えて、私は少しだけ困ってしまった。


「変な顔しないでよ」


「だって、聖女様がそんな素直に頼むなんて珍しくて」


「今は茶化さないで……!」


 私は笑いながら、薄めた浄化液を彼女に渡した。


 エルザは恐る恐る口に含み、ゆっくりとゆすぐ。


 数秒後。


 彼女の身体がびくりと震えた。


「……あ」


「どう?」


 エルザは驚いたように胸に手を当てる。


「熱が……引いていく……」


 黒い魔力の脈動が、確かに弱まっていた。


 完全ではない。


 でも、苦しそうだった呼吸が明らかに楽になっている。


 エルザは涙の残る瞳で私を見上げた。


「本当に……本当にあなたが助けてくれていたのね」


 私は照れくさくなって頭をかいた。


「だから言ったじゃん。君の命が助かったなら、それでいいって」


 次の瞬間。


 エルザは突然、私に抱きついてきた。


「わっ!?」


 細い腕がぎゅっと背中に回される。


 彼女の身体はまだ熱かった。


「ありがとう……レイラ……っ」


 肩口に顔を埋めて、エルザは小さく泣き続ける。


 私はしばらく戸惑っていたが、やがてそっと彼女の背中に手を回した。


「……もう大丈夫。今度はちゃんと助けるから」


 森を吹き抜ける朝風が、二人の髪を優しく揺らしていた。


 こうして、追放から始まった最悪の誤解は終わりを迎える。


 けれどレイラはまだ知らない。


 この再会が、単なる「仲直り」では終わらないことを。


 聖女エルザが、これから想像以上に重く、そして甘く、彼女を求めるようになっていくことを。

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