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第十章 魔王軍の追跡者



 ベルンフェルトに雨が降ったのは、その翌日のことだった。


 朝から空は鉛色の雲に覆われ、薬草畑には細かな雨粒が静かに落ちている。


 私は窓を開けて湿った空気を吸い込み、小さく眉をひそめた。


「……嫌な感じ」


 胸の奥がざわつく。


 ただの雨の日の気配じゃない。


 もっと冷たくて、粘つくような魔力。


 《黒蝕の残滓》に触れた時と同じ、不快な感覚だった。


 背後からエルザの声がする。


「どうしたの?」


 振り返ると、彼女は銀髪をゆるく結び、私の古いシャツを借りていた。


 王都の聖女装束とは正反対の、完全に「同居人」みたいな格好である。


 妙に似合っているのが悔しい。


「ちょっと外の魔力が変」


 エルザの表情がすぐに真剣になる。


「呪いの気配?」


「うん。しかも結構近い」


 私は無意識に窓を閉めた。


 エルザも胸元を押さえる。


「……私も少し感じる。冷たい感じがするわ」


 《黒蝕の残滓》が彼女の中に残っているせいで、呪いへの感覚が鋭くなっているのかもしれない。


 私は調合台の下から短剣を取り出した。


「今日は外出しない方がいいかも」


「レイラ」


 エルザが私の袖を掴む。


「一人で行かないでね」


 その言葉に、私は少しだけ笑ってしまう。


「行かないよ。今は君を守る方が大事だから」


 エルザの耳がほんのり赤くなった。


「そういうことをさらっと言うの、ずるいわ」


「え、何か変なこと言った?」


「無自覚なのがもっとずるい」


 よく分からない。


     ◇


 昼過ぎ。


 雨脚が少し強くなった頃、家の扉が激しく叩かれた。


 ドンドンドン!


「レイラちゃん! いるかい!?」


 宿屋《野兎亭》の女将さんの声だった。


 私は急いで扉を開ける。


「どうしたんですか?」


「西の森で変な魔物が出たんだよ! 冒険者が何人かやられて、ギルドが大騒ぎさ」


「変な魔物?」


「黒い霧をまとった狼みたいなのだって」


 私とエルザは顔を見合わせた。


 黒い霧。


 間違いない。


「場所は?」


「薬草採取場の近くだよ。近づくなってお触れが出てる」


 女将さんを安心させて帰した後、私は深く息を吐いた。


「《黒蝕》の影響を受けた魔獣かもしれない」


「そんなことが起こるの?」


「強い呪詛は周囲の生物を汚染することがあるんだ」


 問題は、その呪詛の発生源だ。


 ただの残滓なら、ここまで広範囲に影響しない。


 つまり――呪いを操る本体が近くにいる可能性が高い。


「レイラ」


 エルザが静かに杖を握る。


「逃げるという選択肢は?」


「ベルンフェルトの人たちを置いて?」


「……ないわね」


 私たちは同時に苦笑した。


 こういうところは、案外似ているのかもしれない。


     ◇


 西の森へ向かう頃には、雨は小降りになっていた。


 木々の間には薄い霧が漂い、いつもよりずっと薄暗い。


 森の入口には、ギルド所属の冒険者が数人集まっていた。


「レイラさん!」


 受付嬢の女性が駆け寄ってくる。


「危険です! 中に入るつもりですか?」


「状況を見たいんです」


 彼女は不安そうに頷いた。


「さっきCランクのパーティーが襲われました。幸い命に別状はありませんが、みんな黒い痣みたいなものが……」


 やはり呪いだ。


 私はエルザを見る。


 彼女も真剣な顔で頷いた。


「行きましょう」


 森の奥へ進むにつれ、空気がどんどん重くなる。


 鳥の声が消え、代わりに低いうなり声のようなものが聞こえてきた。


 そして開けた場所に出た瞬間、それは現れた。


 全長二メートルはある巨大な黒狼。


 毛並みの隙間から黒い霧が噴き出し、赤い瞳がぎらりと光っている。


「《黒蝕狼》……!」


 私は思わず息を呑んだ。


 本来なら存在しないはずの魔物だ。


 普通の狼が強力な呪詛に汚染されて変異したのだろう。


 黒狼は私たちを見るなり、地面を蹴って突進してきた。


「下がって!」


 私はエルザを庇うように前へ出る。


 短剣で爪を受け流すが、衝撃が重い。


「くっ……!」


 その隙にエルザが杖を掲げる。


「《聖光の鎖》!」


 白い光の鎖が黒狼の四肢を縛り上げる。


 以前なら一瞬で浄化できたはずだ。


 しかし黒狼は苦しげに唸りながらも、なお黒い霧を噴き出し続けている。


「レイラ!」


「分かってる!」


 私はポーチから浄化液の小瓶を取り出した。


 普通の解毒薬では意味がない。


 必要なのは【状態異常反転】による反転浄化。


 私は短剣の刃に浄化液を塗り込み、黒狼へ飛び込んだ。


「お願いだから、大人しくして!」


 エルザの鎖が一瞬だけ動きを止める。


 その隙に、私は黒狼の肩へ短剣を突き立てた。


 じゅあああっ!!


 黒い霧が激しく噴き上がる。


 耳を裂くような咆哮。


 だが次の瞬間、霧が白い蒸気へ変わり始めた。


「効いてる!」


 エルザがさらに魔力を込める。


「《浄化よ、今こそ》!」


 白い光と反転浄化が重なった瞬間、黒狼を包んでいた闇が一気に崩壊した。


 霧が晴れると、そこにいたのは傷だらけの普通の灰色狼だった。


 狼は私たちを見上げ、小さく鼻を鳴らす。


 そして森の奥へ静かに去っていった。


「……助かったのね」


 エルザが安堵の息を漏らす。


 しかし私は油断できなかった。


 こんな強い汚染を引き起こせる存在が、まだ近くにいる。


 その時だった。


 森の奥から、ぱちぱちと拍手の音が響いた。


「見事だ」


 低い声。


 木々の影から、黒い外套をまとった男が姿を現す。


 顔の半分は仮面で隠されているが、その赤い瞳だけは異様に鮮明だった。


 エルザの顔色が変わる。


「夢の中の……!」


 男はゆっくり頭を下げた。


「初めまして、聖女エルザ・フィオレンツァ。そして――レイラ・アルシェイド」


 私の背筋に冷たいものが走る。


「あなたが《黒蝕の残滓》を仕込んだの?」


「いかにも。私はヴァルグ。魔王軍第七諜報部所属、呪殺師だ」


 エルザが杖を構える。


「どうして私を狙うの!」


「お前の浄化能力は魔王軍にとって邪魔だからだ」


 ヴァルグは淡々と答えた。


「だが、予想外だったのはそちらの少女だ」


 赤い瞳が私を射抜く。


「《黒蝕》を中和するなど、大神官級でも不可能。お前は一体何者だ?」


 私はエルザを庇うように一歩前へ出た。


「ただの薬師だよ」


「嘘をつけ」


 ヴァルグの視線が鋭くなる。


「お前の力は、呪いそのものを反転させている。まるで魔王軍の天敵だ」


 その言葉に、エルザが驚いたように私を見る。


 私は小さく舌打ちした。


 やはり気づかれている。


 ヴァルグは黒い短杖を掲げた。


「興味が湧いた。聖女よりも、お前の方が価値があるかもしれんな」


 次の瞬間、地面から無数の黒い棘が噴き出した。


「レイラ!」


 エルザが叫ぶ。


 私は彼女の手を掴み、横へ飛び退いた。


 棘がさっきまでいた場所を貫く。


 ヴァルグは楽しげに笑った。


「さあ、見せてみろ。《状態異常反転》の真価を」


 雨に濡れた森の中。


 追放された薬師と、元・聖女。


 二人はついに、魔王軍の呪殺師と正面から対峙することになった。


 そしてその戦いは、単なる「呪いの治療」では終わらない。


 レイラ自身が隠し続けてきた力の秘密を、世界へ晒す戦いの始まりでもあった。

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