第十一章 世界で唯一の浄化薬
黒い棘が、雨に濡れた地面を次々と貫いていく。
私はエルザの手を引き、森の中を横へ跳んだ。
「《風刃》!」
エルザが杖を振ると、白銀の風が棘を切り裂く。
だが切断された断面から、さらに黒い霧が噴き出した。
「増殖してる……!」
私は舌打ちする。
ヴァルグの呪術は、普通の攻撃ではむしろ汚染を広げてしまう。
黒衣の呪殺師は木々の間に立ち、楽しそうにこちらを見ていた。
「なるほど。聖女の浄化と、お前の反転浄化を組み合わせているのか」
赤い瞳が細められる。
「実に興味深い」
「興味本位で人を呪わないでくれる?」
私は短剣を構えた。
ヴァルグは肩をすくめる。
「人? 聖女など魔王軍にとっては障害物にすぎん」
次の瞬間、彼の足元から黒い魔法陣が広がった。
「《黒蝕の檻》」
地面がどろりと溶け、無数の黒い手が這い出してくる。
私はエルザを背中へ庇った。
「下がって!」
黒い手が足首を掴もうと迫る。
普通なら触れただけで呪いが侵食する危険な術だ。
だが私は迷わず踏み込んだ。
短剣を逆手に持ち、掌を軽く傷つける。
赤い血が刃に滲む。
「レイラ!?」
「大丈夫」
血液そのものにも反転効果はある。
私は刃を地面へ突き立てた。
「《反転浄化》!」
血が光を帯び、黒い泥へ広がる。
じゅうううっ!
黒い手が白煙を上げながら崩れていく。
ヴァルグの表情から初めて余裕が消えた。
「……本当に反転しているだと」
「言ったでしょ。ただの薬師じゃないって」
「いや、これはもはや聖遺物の類だ」
彼の声に、明確な警戒が混じる。
エルザが私の隣へ並んだ。
白銀の髪が雨に濡れ、淡く光っている。
「レイラ、一人で抱え込まないで」
「でも君はまだ完全に回復してない」
「だからこそ、一緒に戦うの」
彼女は真っ直ぐ私を見つめた。
「もう、あなた一人に犠牲を背負わせたりしない」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
ヴァルグは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「美しい友情ごっこだな」
「友情ごっこじゃないわ」
エルザの声は静かだった。
「彼女は、私の大切な人よ」
一瞬、私の心臓が止まりかけた。
「エ、エルザ!?」
「今は戦闘中よ。後で驚きなさい」
後で驚けるかな、私。
◇
ヴァルグが再び杖を掲げる。
今度の魔法陣は先ほどより大きい。
森全体の空気が黒く沈んでいく。
「ならばまとめて呑み込め。《黒蝕深淵》」
空から黒い雨が降り始めた。
触れた木々が腐り、草が枯れていく。
このままではベルンフェルトまで汚染が広がる。
「エルザ!」
「ええ!」
私たちは同時に動いた。
エルザが杖を高く掲げる。
「《聖域展開》!」
白い光のドームが私たちを中心に広がった。
黒い雨が光に触れるたび、激しく蒸気を上げる。
だが押し切れない。
ヴァルグの呪力が強すぎる。
「レイラ、今よ!」
私はポーチから最後の高濃度浄化液を取り出した。
本来は数日分に分けて使う量だ。
でも、今ここで決めるしかない。
私は瓶の栓を抜き、掌へ流し込む。
熱い。
反転魔力が全身を駆け巡る。
「お願い……!」
私はエルザの聖域へ手を重ねた。
「《状態異常反転》――最大出力!」
白い光が爆発的に膨れ上がる。
エルザの聖属性と、私の反転浄化が完全に重なった。
それは単なる浄化ではなかった。
呪いそのものを「存在しなかった状態」へ書き換えていく、異質な力。
黒い雨が次々と白い光へ変わっていく。
ヴァルグの顔が初めて明確に歪んだ。
「馬鹿な……!」
彼はさらに呪力を注ぎ込む。
だが遅い。
白い光は黒い深淵を飲み込み、一直線にヴァルグへ到達した。
「ぐっ……!」
呪殺師の身体から黒い霧が噴き出す。
仮面に亀裂が入り、その下の青白い肌が露わになった。
「お前の力……危険すぎる……!」
「危険なのは、そんな呪いをばら撒く方でしょ!」
私はエルザと同時に最後の魔力を放った。
「《聖光浄化》!」
「《反転浄化》!」
二つの光が交差し、ヴァルグを包み込む。
轟音。
まばゆい閃光。
そして――静寂。
光が消えた時、そこにヴァルグの姿はなかった。
残っていたのは、黒く焼けた仮面の破片だけだった。
◇
雨が止んでいた。
森には静かな風が吹き、汚染されていた木々も少しずつ色を取り戻している。
私はその場にへたり込んだ。
「つ、疲れた……」
反転浄化の最大出力は、さすがに消耗が激しい。
エルザもふらりとよろめく。
「大丈夫!?」
慌てて支えると、彼女は苦笑した。
「それ、さっき私が言った台詞よ」
「今は私が心配する番」
エルザは私の肩にもたれかかる。
銀髪が頬に触れて、くすぐったい。
「……勝ったのよね?」
「うん。たぶん完全に消滅したわけじゃないと思うけど、少なくともベルンフェルトへの汚染は止められた」
エルザはほっと息を吐いた。
その時、森の入口の方から複数の足音が聞こえてきた。
「レイラさん!」
「聖女様!」
ギルドの冒険者たちと、ベルンフェルトの衛兵たちだった。
彼らは周囲の惨状を見て目を見開く。
「いったい何が……」
私はエルザと顔を見合わせた。
どこまで説明するべきか。
しかしエルザは迷わず前へ出た。
「魔王軍の呪殺師が現れました」
ざわめきが広がる。
「そして、それを退けたのはレイラ・アルシェイドです」
「エルザ?」
私は慌てて彼女を見る。
エルザは真っ直ぐ前を向いたまま続けた。
「彼女がいなければ、私は王都で死んでいました。この町も汚染されていたでしょう」
衛兵隊長が驚いた顔で私を見た。
「この娘が……?」
私は居心地が悪くて仕方なかった。
目立つのは嫌だ。
能力を知られるのはもっと嫌だ。
だがエルザは、そっと私の手を握る。
「大丈夫」
小さな声だった。
「今度は、私があなたを守るから」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
◇
数日後。
ベルンフェルトの小さな家に、王都からの使者が訪れた。
大聖堂と王国魔導院の連名による正式な書状。
内容は予想通りだった。
「レイラ・アルシェイド殿を、王国特別保護対象として迎え入れたい……か」
私は頭を抱えた。
「やっぱりこうなった……」
希少な浄化能力。
魔王軍の呪いを無効化できる力。
王国が放っておくはずがない。
使者は丁寧な口調で続ける。
「研究協力、専属薬師の地位、十分な報酬と身の安全を保証いたします」
魅力的な条件ではある。
でも私は、白い研究室に閉じ込められる未来しか想像できなかった。
「……お断りします」
使者が困った顔をする。
「しかし、これは王国にとって極めて重要な――」
「彼女は道具ではありません」
静かな声が割って入った。
エルザだった。
彼女は使者の前に立ち、聖女としての威厳をまとっている。
「レイラは聖遺物でも実験材料でもない。自分の意思で生きる、一人の人間です」
「エルザ様……」
「彼女が望まない限り、私はいかなる強制にも反対します」
使者はしばらく言葉を失っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知しました。本件は一度持ち帰ります」
使者が去った後、家の中に静けさが戻る。
私はエルザを見つめた。
「ありがとう」
「当然のことをしただけよ」
彼女は少し照れくさそうに笑う。
「だって、あなたは私の命の恩人だもの」
「それだけ?」
冗談半分で聞いたつもりだった。
しかしエルザは、意外にも真剣な顔になった。
「……それだけじゃないわ」
彼女は私の手を両手で包み込む。
温かい。
「王都で苦しんでいた時、ずっと考えていたの」
銀色の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
「呪いが治った後も、私はあなたの隣にいたいのかって」
私は息を呑んだ。
エルザは少しだけ頬を赤らめ、それでも視線を逸らさなかった。
「答えは、もう決まってる」
彼女の指が、そっと私の指に絡む。
「レイラ。これからも、あなたの隣にいてもいい?」
窓の外では、雨上がりの光が薬草畑を照らしていた。
追放から始まった最悪の誤解は、いつの間にかここまで来ていた。
私は絡められた指を見つめ、胸の奥に広がる温かさを感じながら、小さく笑った。
「……その質問、ずるいよ」
エルザは嬉しそうに目を細める。
世界で唯一の浄化薬。
それはもう、呪いを消す力だけを意味する言葉ではなくなり始めていた。




