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第十二章 毎朝のマウスウォッシュ



 それから三ヶ月後。


 辺境都市ベルンフェルトの外れには、小さな木造の建物が建っていた。


 看板には、少し不格好な文字でこう書かれている。


《アルシェイド薬草店》


 薬草販売。


 簡易診療。


 解毒処置承ります。


 王都の大聖堂や冒険者ギルドのような立派な施設ではない。


 けれど、窓辺には乾燥中のハーブが揺れ、庭には月光草と清風葉の畑が広がっている。


 私はこの場所が、すっかり気に入っていた。


「レイラちゃーん! 腰痛に効く湿布、またお願い!」


「はーい、今作ります!」


 朝から近所のおばあさんがやって来る。


 最近では「ちょっと変わってるけど腕のいい薬師さん」として、すっかり町に馴染んでいた。


 ちなみに「変わってる」の部分については、私は深く追及しないことにしている。


 薬草を刻みながら、ふと奥の部屋を見る。


 そこでは、白銀の髪を揺らしたエルザが、山のような書類と格闘していた。


「……どうして辺境の薬草店に、こんなに書類があるのよ」


「大聖堂からの問い合わせじゃない?」


 ヴァルグ撃退の件以来、王都は何度も私を保護しようとしてきた。


 そのたびにエルザが前に出て、「彼女は自由に生きる権利があります」と押し返してくれている。


 結果として、彼女は半ば正式に「ベルンフェルト駐在聖女」という妙な立場になってしまった。


「聖女って、もっと神聖な仕事じゃなかったっけ?」


「本来はそうよ」


 エルザは疲れた顔でペンを置く。


「でも、あなたを放っておくと、いつか本当に研究機関に連れていかれそうだから」


「そんな危険人物みたいに言わないで」


「十分危険よ。世界で唯一、魔王軍の呪いを完全反転できる存在なんだから」


 私は苦笑した。


 結局、【状態異常反転】の詳細は大聖堂の上層部にだけ知られることになった。


 一般には「特殊な浄化体質を持つ薬師」という扱いだ。


 もちろん、体液がどうこうという部分は全力で秘匿されている。


 ……たぶん。


     ◇


 昼前になると、ベルンフェルトの子どもたちが薬草店へ集まってきた。


「レイラ姉ちゃん!」


「今日は何教えてくれるの?」


 私は笑いながら薬草籠を取り出す。


「今日は毒草と食べられる草の見分け方ね」


「また変な実を食べたら大変だもんねー」


「うっ」


 痛いところを突かれた。


 エルザが後ろでくすくす笑っている。


「自分の黒歴史を教材にする薬師って珍しいわね」


「教育的価値があるんです」


 子どもたちと一緒に薬草を仕分けていると、エルザも自然に輪へ加わってくる。


 最初は「聖女様だ!」と緊張していた子どもたちも、今ではすっかり慣れていた。


「エルザ姉ちゃん、この花きれい!」


「これは《星見花》よ。夜になると少し光るの」


 銀髪を揺らして微笑む彼女は、王都にいた頃よりずっと柔らかい表情をしている。


 完璧な聖女ではなく、町の優しいお姉さん。


 その姿を見ていると、なんだか胸が温かくなった。


     ◇


 夕方。


 子どもたちを見送った後、私は薬草畑の手入れをしていた。


 エルザが隣にしゃがみ込む。


「ねえ、レイラ」


「ん?」


「最近、《黒蝕》の痛み、ほとんど感じないの」


 私は手を止めた。


 確かに、ここ一ヶ月ほど発作は起きていない。


 定期的な反転浄化のおかげで、呪いの核はかなり弱まっている。


「よかったじゃん」


「うん。でも……」


 エルザは少しだけいたずらっぽく笑った。


「完全に治ったら、あなたに構ってもらう口実がなくなるわね」


「口実だったの!?」


「半分くらいは」


 さらっと恐ろしいことを言う。


 私は呆れながらも笑ってしまった。


「じゃあ、治さない方がいい?」


「それは嫌よ。苦しいもの」


「ですよね」


 エルザは土についた私の手をそっと取る。


「でも、呪いがなくなっても、私はここにいるわ」


 真っ直ぐな言葉だった。


 以前の私なら、きっと照れて逃げていただろう。


 でも今は、その手を振りほどきたくなかった。


「……うん」


 私は小さく頷く。


 それだけで、エルザは嬉しそうに目を細めた。


     ◇


 そして翌朝。


 問題の時間がやって来た。


 洗面台の前で、エルザが真顔でコップを差し出している。


「レイラ、今日の浄化処置をお願いします」


「その言い方やめてってば」


「でも正式名称でしょう?」


「正式名称にした覚えはない!」


 エルザはくすっと笑う。


 私は調合済みの浄化液を水で薄めながら、半眼になった。


「最近、わざと楽しんでない?」


「少しだけ」


「聖女様がそんな顔していいの?」


「あなたの前だけだから問題ないわ」


 そう言われると弱い。


 私はコップを差し出した。


「はい、特製マウスウォッシュ」


「特製って言うとまだ危険な響きがするわね」


「言い出したの君でしょ」


 エルザは笑いながら口に含み、ゆっくりゆすぐ。


 数秒後、満足そうに息を吐いた。


「……うん、今日も完璧」


「はいはい、よかったですね」


 私が片付けようとすると、エルザが突然袖を引っ張った。


「レイラ」


「なに?」


 振り返った瞬間。


 彼女は背伸びをして、私の頬にそっと口づけを落とした。


「っ!?」


 完全に不意打ちだった。


 頬が一気に熱くなる。


「な、な、何してるの!?」


「お礼だけど?」


「毎朝するようなお礼じゃないでしょ!」


 エルザは楽しそうに笑う。


「でも、あなたが真っ赤になる顔、可愛いもの」


「聖女が人をからかうんじゃありません!」


「元・聖女よ」


 彼女はさらりと言って、私の腕に自分の腕を絡めてくる。


 最近、こういう距離の詰め方がどんどん自然になっている気がする。


 最初は抱きつくだけで真っ赤になっていたのに。


「もう……本当に変わったよね、エルザ」


「誰のせいだと思ってるの?」


「私?」


「ええ。あなたに甘やかされすぎたの」


 その言葉に、私は苦笑するしかなかった。


 窓の外では、朝日が薬草畑を金色に照らしている。


 追放された日には想像もできなかった光景だ。


 仲間のマウスウォッシュにおしっこを入れて追放された薬師。


 その薬師に命を救われ、泣きながら辺境まで追いかけてきた元・聖女。


 出会い方は最悪だった。


 誤解だらけで、恥ずかしくて、誰にも説明したくない。


 でも。


「レイラ、今日の予定は?」


「午前中は薬草採取。午後はギルドからの解毒依頼かな」


「じゃあ私も一緒に行くわ」


「書類は?」


「後回し」


「駐在聖女がそれでいいの?」


「いいの。私の一番大事な仕事は、あなたの隣にいることだから」


 さらっとそんなことを言う。


 私はもう、顔を赤くしながら笑うしかなかった。


「……しょうがないなぁ」


 そう言って、私は彼女の手を握り返す。


 エルザは嬉しそうに微笑んだ。


 外では朝の風が薬草畑を揺らしている。


 世界を救うような大冒険は、もうないかもしれない。


 けれど、小さな薬草店で誰かを助けながら、好きな人と笑い合って暮らしていく。


 そんな平凡な毎日こそ、きっと私たちが本当に欲しかったものなのだろう。


 追放から始まった最悪の誤解は、いつしか世界で一番騒がしくて、世界で一番幸せな日常へ変わっていた。


 そして今日もまた、ベルンフェルトの小さな薬草店には、二人の笑い声が朝の光と一緒に響いている。


 ――完――

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