第五章 聖女の異変
王都ルクスフィリア。
大聖堂の朝は、鐘の音とともに始まる。
白い石造りの回廊に朝日が差し込み、祈りの声が静かに響いていた。
けれど、その神聖な空気の中で、エルザ・フィオレンツァは一人だけ深く眉をひそめていた。
「……また」
鏡に映る自分の顔は、明らかに疲れている。
目の下のクマは三日前より濃くなり、肌の血色も悪い。
昨夜もほとんど眠れなかった。
眠りにつくたびに、黒い霧と赤い瞳の悪夢を見るのだ。
『浄化の光は届かない』
耳元で囁かれるたび、胸の奥が冷たく凍りつく。
「ただの疲労よ」
そう言い聞かせながら、エルザは洗面台に置かれた《聖樹の雫》を手に取った。
口に含み、ゆっくりゆすぐ。
爽やかな薬草の香り。
ひんやりした清涼感。
なのに。
「……足りない」
思わず呟いてしまう。
以前はこれだけで、頭の奥まで澄み渡るような感覚になった。
最近は喉の奥に薄い膜が張りついたような違和感が残る。
しかも――。
エルザは顔を赤らめながら、そっと自分の息を手のひらに当てた。
「っ……」
微かだが、嫌な匂いがする。
エルフは基本的に体臭が少ない種族だ。
その代わり、魔力循環が乱れると独特の青臭い匂いが強くなる。
エルザは昔からそれを気にしていて、《聖樹の雫》も毎日欠かさず使っていた。
なのに今は、どれだけ浄化しても完全には消えない。
「気のせい……気のせいよ……」
しかし、その声には自信がなかった。
◇
朝食の席。
ガレスはパンをかじりながら、ちらりとエルザを見た。
「お前、ちゃんと寝てるか?」
「寝てるわ」
「絶対嘘だろ」
トーマも尻尾を揺らしながら頷く。
「最近ずっと顔色悪いぞ?」
「聖女様が隈とか珍しいよな」
エルザは苛立ったように紅茶を口に運んだ。
「少し疲れているだけよ」
すると、向かいのミリアが真剣な顔で口を開く。
「昨日、大聖堂の司祭に相談しました」
「ミリア!?」
「念のためです」
彼女は小声で続けた。
「やはり、普通の疲労ではない可能性があります。浄化術への反応が不自然だと」
エルザはカップを置いた。
「大げさよ。聖女が少し体調を崩したくらいで騒ぎすぎだわ」
「でも――」
「この話は終わり」
強い口調だった。
ミリアはそれ以上何も言えなくなる。
沈黙が落ちた。
その時、トーマが何気なく鼻をひくつかせた。
「……ん?」
「どうしたの?」
「いや、なんか薬草みたいな匂いが強くないか?」
エルザの心臓がどきりと跳ねる。
「そ、そう?」
「気のせいかも」
トーマは首をかしげたが、エルザは急に食欲を失ってしまった。
まさか、本当に周囲に気づかれるほどなのか。
◇
その日の依頼は、王都近郊の浄化任務だった。
古い墓地に現れた低級アンデッドの討伐。
本来ならエルザにとって簡単すぎる仕事である。
「《聖光よ、穢れを払え》」
彼女が杖を掲げると、白い光が墓地を包んだ。
アンデッドたちは次々と浄化されていく。
だが最後の一体に光が触れた瞬間。
ずきっ。
胸の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
エルザはよろめく。
「エルザ!」
ガレスが慌てて支える。
アンデッドは浄化されたが、エルザの呼吸は乱れていた。
「大丈夫よ……」
「全然大丈夫に見えねぇ」
額には冷や汗が浮かんでいる。
しかも、浄化魔法を使った直後だというのに、身体の内側に黒い冷たさが残っていた。
まるで、自分の光が何かに食われているような感覚。
エルザは思わず唇を噛んだ。
「今日はもう戻りましょう」
ミリアの提案に、誰も反対しなかった。
◇
宿へ戻った後。
エルザは一人で浴室にこもっていた。
熱い湯を何度も浴びる。
髪を洗い、香油を使い、浄化魔法まで重ねる。
それでも不安が消えない。
彼女は鏡の前で、自分の長い銀髪を絞った。
水滴が白い肌を伝って落ちる。
そして再び、恐る恐る息を確認する。
「……どうして」
まだ残っている。
以前なら絶対にあり得なかった。
エルザは椅子に座り込み、顔を覆った。
聖女である自分が、こんなことで悩んでいるなんて情けない。
だが、女性として気にならないはずがない。
しかも、最近ガレスやトーマが微妙に距離を取っている気がする。
考えすぎかもしれない。
でも、一度気になり始めると止まらなかった。
その時。
ふと、脳裏によみがえる記憶があった。
『なんだか最近やけに爽快感が強いと思っていた自分が恥ずかしいじゃない!』
あの日。
問題のマウスウォッシュを使った後の感覚。
驚くほど口の中がすっきりして、身体まで軽くなった気がした。
疲労も薄れ、魔力循環も滑らかだった。
もちろん、原因を知った瞬間に怒りで全部吹き飛んだのだが。
「……まさかね」
エルザはぶんぶんと首を振る。
あり得ない。
絶対にあり得ない。
あれはただの変態行為だ。
そう自分に言い聞かせる。
なのに胸の奥では、別の声が囁いていた。
本当に、ただそれだけだったのだろうか?
◇
夜更け。
エルザは再び悪夢を見た。
今度はもっと鮮明だった。
黒い霧が身体にまとわりつき、喉の奥から内側へ入り込んでくる。
苦しい。
冷たい。
そして遠くに、誰かの背中が見えた。
栗色の髪。
見慣れた旅装束。
「……レイラ」
彼女が振り返る。
いつもの困ったような笑顔。
『エルザ、大丈夫?』
その瞬間、黒い霧が後退した。
胸の痛みが和らぐ。
呼吸が楽になる。
エルザは必死に手を伸ばした。
「待って!」
しかしレイラの姿は霧の向こうへ消えていく。
『ごめんね。追放されたから、もう隣にはいられない』
「違う……!」
エルザは叫びながら飛び起きた。
全身が汗でびっしょりだった。
胸が激しく上下している。
「レイラ……」
無意識にその名前を呼んでいた。
隣のベッドで寝ていたミリアが目を覚ます。
「また悪夢ですか?」
エルザはしばらく黙っていた。
そして、かすれた声で尋ねる。
「ミリア……あなた、レイラのことをどう思っていた?」
「え?」
「正直に答えて」
ミリアは少し考えてから言った。
「変わった人でした。でも、すごく優しかったです」
その言葉が胸に刺さる。
優しかった。
確かにそうだ。
レイラはいつも誰かのために動いていた。
自分がどれだけ損をしても。
「……もし」
エルザは唇を噛む。
「もし、彼女に本当に何か理由があったとしたら?」
ミリアは静かにエルザを見つめた。
「私も、それを考えています」
部屋に沈黙が落ちる。
窓の外では、夜風が雨戸を揺らしていた。
エルザは胸元を押さえる。
熱い。
苦しい。
そして何より、怖かった。
自分の身体で何が起きているのか分からないことが。
もしレイラがここにいたら、何か分かったのだろうか。
そんな考えが浮かんでしまう自分に、エルザは小さく目を閉じた。
その頃、辺境都市ベルンフェルトでは。
レイラが薬草畑の手入れを手伝いながら、子どもたちに囲まれて笑っていた。
王都で自分を恋しがり始めている聖女のことなど、まだ知る由もなかった。
だが、運命の歯車は確実に動き始めている。
聖女の異変は、もはや「疲労」では済まされない段階に入りつつあった。




