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第三章 魔王軍の暗殺者



 王都ルクスフィリア。


 その中心部にそびえる冒険者宿《銀鹿亭》の二階で、エルザは洗面台の前に立っていた。


 追放騒動から二日。


 部屋には妙な静けさが漂っている。


 ガレスは腕を組んだまま黙り込み、トーマは気まずそうに窓の外を眺め、ミリアだけが机に広げた魔導書をぼんやりとめくっていた。


 レイラがいなくなっただけで、こんなにも空気が変わるものなのか。


 エルザは小さくため息をつく。


「……はぁ」


 視線の先には、新しく買ってきた《聖樹の雫》が置かれていた。


 もちろん、あの問題の瓶はすでに処分してある。


 あんなものを手元に置いておけるはずがない。


 なのに。


 なぜか胸の奥に、すっきりしないものが残っていた。


「エルザ、まだ気にしてるのか?」


 ガレスが声をかける。


「別に気にしてないわ」


「いや、絶対気にしてる顔だぞ」


「気にしてません」


 即答だった。


 トーマがぼそっと呟く。


「でもさぁ、レイラ姉、最後に変なこと言ってたよな」


『エルザの命が助かったなら』


 その言葉が、再び脳裏によみがえる。


 エルザは眉をひそめた。


「あれはただの言い訳でしょう」


「うーん……」


 ミリアが本を閉じる。


「私は少し引っかかっています」


「ミリアまで?」


「レイラさんって、意味もなく人を傷つけるタイプじゃないんですよ。むしろ逆で、自分が損しても仲間を優先する人でした」


 それはエルザもよく分かっていた。


 レイラはいつもそうだった。


 自分の食事を後回しにしてでも薬草を探し、誰かが怪我をすれば真っ先に駆け寄る。


 だからこそ、あの行動が理解できないのだ。


「……でも、だからってあれを許せるわけじゃないわ」


「それはそうです」


 ミリアも真顔で頷いた。


「倫理的には完全にアウトです」


「だよなぁ……」


 ガレスが頭をかく。


 結局そこに戻ってしまう。


 エルザは話を打ち切るように、新しい瓶の栓を開けた。


 爽やかな薬草の香りが広がる。


 いつもの香り。


 いつものはずなのに、なぜか少し物足りなく感じた。


「……気のせいね」


 コップに液体を注ぎ、口に含む。


 ひんやりとした清涼感が広がる。


 だが次の瞬間。


「っ!?」


 喉の奥に、鋭い熱が走った。


 エルザは咳き込み、慌てて洗面台に液体を吐き出す。


「エルザ!?」


 ガレスたちが駆け寄る。


「どうした!?」


「な、なんでも……」


 そう言いかけて、再び激しい咳。


 胸の奥が焼けるように熱い。


 まるで黒い火が内側から広がっていくような感覚だった。


 ミリアがすぐに詠唱を始める。


「《解析》!」


 青白い魔法陣がエルザの身体を包む。


 数秒後、ミリアの顔色が変わった。


「これ……呪い?」


「呪いだと?」


「かなり微弱です。でも確かに反応があります」


 エルザ自身も聖女として浄化魔法を扱える。


 彼女は震える指で胸元の聖印を握りしめた。


「《浄化》」


 柔らかな光が身体を包む。


 普通の呪詛なら、これで簡単に消えるはずだった。


 しかし。


 熱は完全には消えなかった。


「そんな……」


 エルザの背筋に冷たいものが走る。


 自分の浄化魔法で取り除けない呪いなど、滅多に存在しない。


 ミリアが険しい顔で言った。


「一度、大神殿で詳しく調べてもらった方がいいかもしれません」


「大げさよ。ただの体調不良かもしれないわ」


 そう言いながらも、エルザの声にはわずかな動揺が混じっていた。


     ◇


 その夜。


 エルザはなかなか眠れなかった。


 喉の奥に残る熱。


 胸のざわつき。


 そして、何度も頭をよぎるレイラの顔。


『……ま、いっか。エルザの命が助かったなら』


「もう……何なのよ……」


 枕に顔を埋めても、言葉が離れてくれない。


 結局、ようやく眠りについたのは深夜になってからだった。


 そして夢を見た。


 暗い廊下。


 どこまでも続く石造りの通路。


 遠くで水滴の音が響いている。


 その奥から、黒い外套をまとった誰かがゆっくり歩いてくる。


『聖女エルザ』


 男とも女ともつかない声。


『お前の魂は、すでに腐り始めている』


 外套の隙間から覗いたのは、人間のものとは思えない赤い瞳だった。


『浄化の光は届かない』


 黒い霧が足元から這い上がってくる。


 冷たい。


 苦しい。


 息ができない。


「いやっ――!」


 エルザは悲鳴を上げて飛び起きた。


 全身が汗で濡れている。


 胸が激しく上下し、呼吸が乱れていた。


「エルザ!?」


 隣のベッドからミリアが起き上がる。


「大丈夫ですか!?」


「……夢、よ」


 エルザは額を押さえた。


 ただの悪夢。


 そう自分に言い聞かせる。


 けれど、喉の奥の熱はまだ残っていた。


     ◇


 一方その頃。


 王都の外れ、使われなくなった地下水路。


 湿った石壁に囲まれた暗闇の中で、一人の黒衣の男が膝をついていた。


 その前には、黒い水晶球が浮かんでいる。


 水晶の中には、エルザの姿がぼんやりと映っていた。


「……ほう」


 男は低く笑う。


「発症したか」


 彼の名はヴァルグ。


 魔王軍第七諜報部に属する呪殺師だった。


 聖女エルザ・フィオレンツァ。


 魔王軍にとって、彼女の浄化能力は大きな障害だった。


 正面から殺すのは難しい。


 だから内側から腐らせる。


 ヴァルグが仕込んだのは、《黒蝕の残滓》と呼ばれる特殊呪詛だった。


 口から体内へ入り込み、ゆっくりと魂を侵食する。


 発症した時には、すでに手遅れ。


 浄化術師自身の力すら逆利用して増殖する、極めて悪質な呪いである。


「あと一ヶ月もすれば、聖女は自ら闇に堕ちるだろう」


 彼は満足げに水晶を撫でた。


 だが次の瞬間、男の眉がぴくりと動く。


「……妙だな」


 本来なら、もっと侵食が進んでいるはずだった。


 確かに発症している。


 しかし、呪いの核がどこか不自然に弱まっている。


 まるで一度、強力な浄化を受けたかのように。


「大神殿の結界か?」


 ヴァルグは首を振る。


 いや、それとは違う。


 もっと原始的で、理解不能な何か。


 彼は水晶球の記録を逆再生するように魔力を流し込んだ。


 映像が遡る。


 宿屋の洗面台。


 青いマウスウォッシュ。


 そこへ近づく、一人の少女。


 栗色の髪。


 地味な旅装束。


 レイラ・アルシェイド。


 彼女が瓶に何かを加えた瞬間、水晶の中の黒い霧が激しく揺らいだ。


「……何だ、これは」


 ヴァルグの赤い瞳が細められる。


 呪いが消えている。


 完全ではないにせよ、明らかに弱体化していた。


「あり得ん……《黒蝕の残滓》を中和しただと?」


 彼は初めて動揺を見せた。


 大神官級の浄化術師でも、あの呪いを完全には防げないはずだ。


 ましてや、ただのCランク冒険者が。


 ヴァルグはしばらく沈黙した後、低く笑った。


「面白い」


 聖女より先に、あの少女を調べる必要がある。


 もし本当に呪いを打ち消す力を持つなら、それは魔王軍にとって極めて危険な存在だ。


 彼は水晶球を握り潰した。


 ぱきん、と黒い破片が地下水路に散らばる。


「レイラ・アルシェイド……」


 暗闇の中で、呪殺師の赤い瞳だけが妖しく光っていた。


「お前は一体、何者だ?」


     ◇


 翌朝。


 エルザは鏡の前で自分の顔を見つめていた。


 目の下に、ほんのわずかなクマができている。


 たった一晩眠れなかっただけで、ここまで疲れて見えるのは珍しい。


「……本当に体調が悪いのかしら」


 彼女は新しい《聖樹の雫》を手に取る。


 昨夜のことを思い出し、少しためらった。


 それでも意を決して口に含む。


 今度は熱は走らなかった。


 だが同時に、奇妙な違和感が残る。


 何かが足りない。


 喉の奥が、完全にはすっきりしない。


 エルザは無意識に、処分したはずの古い瓶のことを思い出していた。


「……そんなわけないでしょう」


 彼女は首を振り、その考えを追い払う。


 けれど、胸の奥の不安だけは消えてくれなかった。


 そして遠く離れた街道沿いでは、追放された少女が何も知らずに焚き火の後始末をしている。


 自分を追放した聖女の身体で、恐ろしい呪いが静かに目を覚まし始めていることも。


 その呪いを完全に抑えられる存在が、自分しかいないことも。


 まだ、誰も知らなかった。

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