第二章 状態異常反転という呪われた才能
王都を出て三日目。
私は街道沿いの小さな野営地で、一人焚き火を眺めていた。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音だけが、夜の静寂に溶けていく。
「……静かだなぁ」
三年間、誰かと一緒に旅をしていたせいだろうか。
ガレスの大声も、ミリアの理屈っぽい独り言も、トーマの落ち着きのない足音も聞こえない夜は、思った以上に広く感じられた。
もちろん、一番耳に残っているのはエルザの声だ。
『あなたを今この瞬間をもって、《暁の星》から追放するわ!』
「うぅ……思い出すと結構くるなぁ……」
私は膝を抱えて丸くなる。
客観的に見れば、完全に私が悪い。
どんな事情があろうと、「仲間のマウスウォッシュに尿を混入した」という事実だけ切り取れば、追放どころか通報案件である。
いや、本当にどうしてあんな能力なんだろう。
もっとこう、「聖なる浄化光線」とか「万能解毒の涙」とか、格好いい方向に進化してくれればよかったのに。
神様のネーミングセンスを疑う。
私は焚き火の横に置いた水筒を手に取り、一口飲んだ。
そして、ふと掌を見つめる。
「【状態異常反転】……か」
その名を初めて聞いたのは、十年前だった。
◇
私がまだ七歳だった頃。
故郷の村は、山に囲まれた貧しい集落だった。
父は薬草採取人、母は小さな診療所の助手をしていて、私は毎日のように山を駆け回っていた。
事件が起きたのは、春祭りの前日だった。
村の子どもたちと遊んでいた私は、森で赤い木の実を見つけた。
艶々していて、美味しそうだった。
そして、何も考えずに食べた。
結果から言えば、その実は《血哭きベリー》という猛毒植物だった。
大人でも数粒で死ぬ。
私は十粒以上食べていたらしい。
家に戻ってすぐ倒れ、村中が大騒ぎになった。
『レイラ! しっかりしなさい!』
母の泣き声。
解毒薬を探して走り回る父。
村の治癒師まで呼ばれた。
でも、私自身の記憶は妙にぼんやりしている。
熱くて、苦しくて、身体の中を何か黒いものが這い回っているような感覚だけがあった。
そして翌朝。
私は普通に目を覚ました。
『……お腹すいた』
それが第一声だったらしい。
母は泣きながら私を抱きしめ、父は「奇跡だ」と呟いた。
けれど、本当の異常はその後に起きた。
私が吐き出した毒液を舐めてしまった野良犬が、なぜか元気になったのだ。
本来なら即死してもおかしくない量の毒だった。
なのに、その犬は毛並みまで良くなって走り回っていた。
村人たちはざわついた。
『毒が消えた?』
『いや、逆に身体に良いものになっていたぞ』
『どういうことだ……?』
数日後、王都から派遣された学者がやって来た。
白衣を着た老人は、私にさまざまな検査を行った。
血液。
唾液。
汗。
涙。
そして最終的に、彼は青ざめた顔でこう言った。
『この子は……状態異常そのものを反転させている』
『反転?』
『毒は治癒へ。呪いは祝福へ。病は活力へ変換される。理論上あり得ない現象だ』
両親は理解できずに顔を見合わせていた。
私もよく分かっていなかった。
ただ、その日から私は「普通の子ども」ではなくなった。
◇
焚き火の火が小さくなってきた。
私は薪を一本くべながら、苦い記憶を思い出す。
能力が知られると、人は簡単に変わる。
最初は「奇跡の子」ともてはやされた。
風邪をひいた子どもに私が触れると治りが早い。
毒虫に刺された農夫の腫れが引く。
呪われた家畜が元気になる。
村人たちは感謝した。
でも、噂が広がるにつれて、別の人間もやって来た。
貴族。
商人。
研究者。
『その子を王都で保護すべきだ』
『能力を調べれば新しい万能薬が作れる』
『国の財産になる』
ある日、父が珍しく激怒した。
『レイラは道具じゃない!』
その夜、私たちは村を出た。
荷馬車に最低限の荷物だけを積み、誰にも行き先を告げずに。
私は荷台の毛布にくるまりながら、震える母の手を握っていた。
『ごめんね、レイラ』
『なんで謝るの?』
『あなたを普通の子として育ててあげられなくて』
私はその時、初めて理解した。
この力は「奇跡」なんかじゃない。
人に知られてはいけないものなのだと。
◇
その後、私は能力を隠して生きることを覚えた。
冒険者になったのも、各地を移動できるからだ。
傷薬の知識を身につけ、薬草学を学び、「ちょっと治療が得意なサポート役」を演じ続けてきた。
エルザたちにも、本当のことは話していない。
彼女たちが知っているのは、「毒への耐性が異常に高い」という程度だ。
それで十分だった。
十分だったはずなのに。
「……今回は隠しきれなかったなぁ」
私はため息をつく。
エルザのマウスウォッシュ事件は、さすがに擁護不能だった。
普通なら「毒を消すために体液を使った」と説明すれば済む話かもしれない。
でも、私の能力はそこまで単純ではない。
血液だけでは弱い。
唾液でも足りない。
最も強い浄化効果を持つのは、体内で長時間魔力循環を受けた排泄液――つまり尿なのだ。
「神様、絶対わざとやってるよね……」
私は本気で天を恨んだ。
その時、茂みの奥からガサガサと音がした。
私は反射的に短剣を握る。
「誰?」
現れたのは、一匹の灰色狼だった。
痩せている。
しかも後ろ足を引きずっていた。
「怪我してるの?」
狼は唸り声を上げたが、逃げようとはしなかった。
私は警戒しながら近づく。
足を見ると、黒ずんだ棘が深く刺さっている。
「……ああ、《腐れ茨》か」
放置すれば壊死する毒棘だ。
私はポーチから小瓶を取り出した。
昼間、自分用に作っておいた浄化液。
もちろん、成分については深く考えてはいけない。
布に染み込ませ、狼の傷口に押し当てる。
じゅっ、と小さな音がした。
黒ずんでいた部分がみるみる薄くなっていく。
狼は驚いたように目を見開き、やがて静かに座り込んだ。
「痛くないでしょ?」
そっと頭を撫でると、狼は抵抗しなかった。
むしろ、尻尾を小さく振っている。
「ふふ。君は事情を聞かないんだね」
人間ならまず「その液体は何だ」と尋問される。
でも動物は違う。
助かったかどうか、それだけだ。
狼はしばらく私の隣で焚き火に当たっていたが、やがて立ち上がり、森の奥へ消えていった。
去り際に一度だけ振り返り、小さく鼻を鳴らす。
「おやすみ」
私は手を振った。
再び一人になる。
けれど、不思議とさっきまでより寂しくなかった。
誰かを助けられる限り、この力にも意味はあるのかもしれない。
たとえ、その方法が少し――いや、かなり変でも。
私は焚き火を見つめながら呟いた。
「エルザ、元気にしてるかな」
今頃きっと、まだ怒っているだろう。
聖女としての誇りを傷つけられたのだから当然だ。
でも、それでいい。
嫌われてもいいから、生きていてほしい。
その時、胸の奥がわずかにざわついた。
嫌な予感。
まるで遠くで黒い波がうねっているような感覚。
私は顔を上げ、王都の方角を見た。
夜空は静かだった。
けれど私の能力は、時々こうして「悪い状態異常」の気配を微かに感じ取ることがある。
「……気のせい、だといいんだけど」
焚き火の炎が、突然大きく揺れた。
そしてその頃、王都ルクスフィリアでは。
白銀の髪をほどいた聖女エルザが、鏡の前で小さく首を傾げていた。
「……あれ?」
喉の奥が、ほんの少しだけ熱い。
いつもなら《聖樹の雫》で口をゆすげば消えるはずの、微かな違和感。
彼女はまだ知らない。
自分の身体の奥底で、黒い呪いが静かに目を覚まし始めていることを。
そして、その進行を抑えていた唯一の存在を、自分の手で追放してしまったことを。




