第一章 追放の聖女裁判
王都ルクスフィリアの夜は、雨上がりの匂いに満ちていた。
石畳に残った水たまりが街灯の魔導結晶を映し、青白い光を揺らしている。
冒険者向け宿屋《銀鹿亭》の二階。普段なら酒臭い笑い声が響くはずの共同部屋は、今夜に限って妙に静かだった。
その静寂を破ったのは、凛とした女性の声だった。
「……レイラ」
私は薬草を仕分けていた手を止め、ゆっくり顔を上げる。
部屋の中央に立っていたのは、白銀の長髪を背中まで流したエルフの聖女――エルザ・フィオレンツァだった。
月光を凝縮したような美貌。
王都の大聖堂からも何度か勧誘を受けたほどの浄化術師。
そして、私が三年間、一緒に旅をしてきた仲間。
その彼女が今、かつて見たこともないほど険しい表情をしていた。
「いい加減にして!」
澄んだ声が部屋に響き渡る。
「あなたを今この瞬間をもって、《暁の星》から追放するわ!」
私は小さく瞬きをした。
ついに来た。
いや、来てしまったというべきか。
原因は、エルザの右手に握られているガラス瓶だった。
彼女が毎晩欠かさず使っている高級マウスウォッシュ――正式名称《聖樹の雫》。
透明感のある淡青色が特徴のエルフ製浄化液で、一本だけで普通の冒険者の一週間分の宿代が飛ぶ。
その液体が今、微妙に黄色く濁っていた。
どう見ても異常だった。
しかも、瓶の中身は三分の一ほど減っている。
つまりエルザは――すでに使っている。
「言い訳はある、レイラ?」
彼女の背後には、他の仲間たちがいた。
大剣使いのガレス。
赤髪の魔法使いミリア。
猫獣人の斥候トーマ。
全員が、なんとも言えない顔をしている。
私は観念して口を開いた。
「……エルザ。それには海より深く、山より高い事情があるの」
「中身があなたのおしっこでも?」
「はい、間違いありません」
一拍の沈黙。
そして。
「サイコパス!!!!」
聖女らしからぬ絶叫が炸裂した。
ガレスが頭を抱える。
「うわぁ……マジかよ……」
トーマは本気で後退した。
「いやいやいや、レイラ姉、さすがにそれは擁護不能だって!」
ミリアだけが、困惑と興味の入り混じった表情で私を見ている。
「確認なんですけど……本当に故意なんですか?」
「故意ではある」
「故意なんだ……」
彼女の肩ががっくり落ちた。
エルザは震える手で瓶を掲げる。
「な、なんでそんなことをしたの!? 私のマウスウォッシュよ!? 口に入れるものなのよ!?」
「それは、その……」
言えない。
絶対に言えない。
まさか『魔王軍の暗殺者が致死性の呪い毒を仕込んだから、とっさに自分の体液で中和しました』なんて説明したところで、普通は信じてもらえない。
今ですら十分に異常者扱いなのだ。
エルザは顔を真っ赤にして続けた。
「しかも、昨日も使ったのよ!」
「あっ」
「『あっ』じゃないわよ!!」
彼女は耳まで赤くなっていた。
「一昨日も、その前も普通に口をゆすいでいたの! なんだか最近やけに爽快感が強いと思っていた自分が恥ずかしいじゃない!」
それは浄化効果がしっかり働いていたからです。
――とはもちろん言えない。
私は視線を逸らした。
ガレスが重々しく口を開く。
「レイラ、お前なぁ……俺たち、もう三年も一緒にやってきたんだぞ」
彼は大剣を壁に立てかけ、疲れ切った顔で私を見た。
「変な薬草を集める趣味があるのは知ってた。毒キノコを『香りがいい』って言って持ち帰るのも知ってた。だが、仲間の洗口液に排尿は新しい」
「新しいって言わないで」
「他に表現が思いつかねぇよ!」
トーマが尻尾を逆立てながら割り込む。
「だいたい、どうやって入れたんだよ! タイミングおかしくない!?」
「そこは聞かなくていいでしょ!」
「気になるだろ普通!」
ミリアが額を押さえた。
「論点をそこにするのはやめてください……」
騒がしいやり取りの中、エルザだけは笑わなかった。
彼女は静かに瓶を机に置き、深く息を吸う。
その仕草を見て、私は嫌な予感を覚えた。
本気で怒っている時のエルザは、むしろ声が静かになる。
「レイラ」
「……はい」
「私は、あなたを信頼していたわ」
胸がちくりと痛んだ。
「あなたは前線で戦うタイプではないけれど、誰よりも仲間の状態を気にかけてくれていた。傷薬の補充も、食事の栄養管理も、毒への対処も、全部あなたがやってくれていた」
そう言われると、余計につらい。
私は俯いたまま黙っていた。
「だからこそ、どうしてこんなことをしたのか理解できない」
理解できないのは当然だ。
私だって、客観的に見れば理解したくない。
でも、あの時は本当に時間がなかった。
◇
ほんの一時間前。
私は宿屋の裏口近くで薬草を洗っていた。
すると、黒い外套を着た男が、音もなく二階へ上がっていくのが見えた。
気配が異様だった。
冒険者でも盗賊でもない。
もっと冷たい何か。
嫌な予感がして追いかけた時には、男はすでにエルザたちの部屋から出ていくところだった。
私は咄嗟に部屋へ駆け込み、洗面台の瓶を確認した。
淡青色の液体の底に、黒い靄のようなものが沈んでいた。
呪い毒。
しかも、かなり高位の。
普通の解毒薬では間に合わない。
エルザはその時、下の食堂で夕食を取っていた。
数分後には部屋に戻り、いつものように口をゆすぐだろう。
私は腰のポーチを探った。
解毒薬――ない。
浄化触媒――足りない。
間に合わない。
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、自分の固有スキルだった。
【状態異常反転】
毒を浄化へ。
呪いを祝福へ。
そして、その影響を受けた私の体液は、強力な浄化作用を帯びる。
「……これしかない」
私は顔を覆いたくなった。
方法として最低すぎる。
でも、エルザの命と天秤にかけるなら、選択肢はなかった。
◇
「レイラ?」
エルザの声で現実に引き戻される。
「まだ何か隠しているの?」
私は口を開きかけて、閉じた。
言えば彼女は混乱する。
いや、混乱どころでは済まない。
自分が知らないうちに、そんな形で命を救われていたなどと知れば、エルザはきっと自分を責める。
それは嫌だった。
「……ごめん」
結局、出てきたのは謝罪だけだった。
エルザの瞳が悲しそうに揺れる。
ミリアがそっと手を挙げた。
「あの、エルザさん。もう少し事情を聞いても――」
「ミリア」
静かな声。
「どんな理由があっても、仲間の口に入るものに無断で排泄物を混入させる行為は許されません」
「それは……はい」
正論だった。
誰も反論できない。
エルザは腰のポーチから銀色のカードを取り出した。
私の冒険者ギルドカード。
Cランクの刻印が月明かりを反射している。
三年間、一緒に積み上げてきた証だった。
「サポート役レイラ・アルシェイド」
聖女が裁きを下すように告げる。
「あなたを《暁の星》から除名します」
私は抵抗しなかった。
カードを手放す瞬間、指先がわずかに震える。
初めて依頼を達成した日。
皆で昇格祝いをした夜。
エルザが珍しく酔って、「これからもよろしくね」と笑ったこと。
そんな記憶が、一枚の金属板と一緒に剥がれていく気がした。
トーマが気まずそうに視線を逸らす。
ガレスも何か言いたげだったが、結局黙ったままだった。
私は立ち上がり、荷物袋を肩にかける。
「……ま、いっか」
できるだけ軽い声を作った。
「エルザの命が助かったなら」
「え?」
しまった。
思わず本音が漏れた。
「今、なんて――」
「なんでもない。独り言」
私は慌てて笑ってごまかす。
エルザは怪訝そうに眉を寄せたが、やがて首を振った。
「もう行って」
「うん」
扉へ向かいながら、私は一度だけ振り返った。
「三年間、本当にありがとう」
返事はなかった。
ただ、エルザだけが、ほんの少しだけ苦しそうな顔をしていた。
◇
宿屋を出ると、夜風が頬を撫でた。
王都の大通りはまだ賑わっている。
酔っぱらいの笑い声。
屋台から漂う焼き肉の香り。
馬車の車輪の音。
そのすべてが、急に遠い世界のもののように感じられた。
「終わっちゃったなぁ……」
三年間。
ガレスの無茶な突撃を支え、ミリアの魔力切れをフォローし、トーマの偵察結果を整理し、エルザの浄化魔法を補助してきた。
地味だけど、私はあのパーティーが好きだった。
特にエルザは、最初こそ近寄りがたい聖女様だったけれど、実際は不器用で真面目で、夜更かしするとすぐ目の下にクマができるような人だった。
だからこそ、あの毒に気づいた時、考えるより先に身体が動いてしまったのだ。
「……説明しても、たぶん信じてもらえなかったよね」
私は苦笑する。
むしろ「おしっこを入れた言い訳としては史上最低」くらいに思われただろう。
それなら、変人扱いされる方がまだマシだ。
エルザが生きているなら、それでいい。
私は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、無数の星が瞬いている。
「さて、と」
肩の荷物を持ち直す。
「明日からどうしようかな。ソロ冒険者でもやってみるか」
少しだけ寂しくて、少しだけ自由だった。
その時だった。
王都の屋根の上を、黒い影が音もなく駆け抜けた。
まるで獲物を探す獣のように。
私は気づかなかった。
あの宿屋の一室で、本当に恐ろしいものは、黄色く濁ったマウスウォッシュなどではなかったことを。
そして一ヶ月後。
泣きながら私の名を呼び、私の腕の中で震えることになる聖女の未来を、この時の私はまだ知らなかった。




