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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第五章 海を結ぶ橋

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第十五話 千年の祝詞

夕暮れが近づくにつれ、境内の空気は少しずつ変わっていった。


 昼間は鳥たちのさえずりで賑やかだった森も、今は静かに息を潜めている。


 木漏れ日は黄金色へ変わり、社殿の屋根をやわらかく照らしていた。


 神職に案内され、蒼真たちは拝殿の端へ静かに座る。


 畳の香り。


 檜の柱。


 どこからか漂う白檀にも似た香の気配。


 誰も言葉を発しない。


 その沈黙さえ、この場所では祈りの一部のように思えた。


 ◇


 やがて奥から数人の神職がゆっくりと姿を現した。


 白い装束に浅葱色の袴。


 一人ひとりが無駄のない所作で所定の位置へ進む。


 夕風が御簾をわずかに揺らした。


 鈴が一度だけ、小さく鳴る。


 それを合図に、祝詞が始まった。


 低く、穏やかな声。


 言葉の意味はすべて分からない。


 それでも、その響きは森へ溶け込み、木々を渡り、海へ向かって流れていくようだった。


 ◇


 陸は自然と目を閉じる。


 耳に届くのは祝詞だけではない。


 風が葉を揺らす音。


 遠くで鳴く鳥。


 社殿の軒先をかすめる風鈴。


 それらが重なり、一つの音楽のようになっていた。


 「海まで届いているのかな……。」


 心の中でそう思う。


 答えはない。


 けれど、この島では昔から同じ祈りが海へ向けて捧げられてきた。


 きっと今日も。


 そして明日も。


 ◇


 澪は旅の始まりを思い返していた。


 神様に会えると思っていた。


 神話の秘密を知りたいと思っていた。


 けれど旅を続けるうちに出会ったのは、祭りを守る人、港で働く人、毎朝落ち葉を掃く人。


 その誰もが、特別なことはしていない。


 ただ、自分にできることを、今日も変わらず続けている。


 祝詞を聞きながら、澪は静かに思う。


 祈りとは、願いを口にすることではなく、毎日を誠実に生きることなのかもしれない。


 ◇


 蒼真は胸元の神代の鍵をそっと握った。


 鍵は光らない。


 それなのに、今までで一番近くに神様を感じていた。


 ふと、タケルが小さな声で言う。


 「蒼真。」


 「はい。」


 「何が聞こえる。」


 蒼真は耳を澄ませる。


 祝詞。


 風。


 葉擦れ。


 そして、自分たちの静かな呼吸。


 「……みんなの祈り。」


 タケルは微笑んだ。


 「そうだ。」


 「神は、祈りの先にいるだけではない。」


 「祈る人の中にも、おられる。」


 その一言は、祝詞よりも深く蒼真の胸に残った。


 ◇


 やがて祝詞が終わる。


 境内には再び静けさが戻ってきた。


 神職たちは一礼し、ゆっくりと社殿の奥へ姿を消す。


 誰も拍手をしない。


 歓声もない。


 ただ、それぞれが静かに頭を下げていた。


 蒼真たちも、自然と頭を垂れる。


 その瞬間、旅の疲れがすっとほどけていくような気がした。


 ◇


 外へ出ると、西の空が茜色に染まっていた。


 社殿の向こうには瀬戸内海が穏やかに広がり、その海を一艘の船がゆっくりと進んでいく。


 神職が隣へ歩み寄る。


 「昔、この海へ漕ぎ出す人たちは皆、この景色を見て旅立ちました。」


 「そして帰ってきた時も、最初にこの森を見て安心したそうです。」


 蒼真は静かに海を見つめる。


 「帰ってこられるって、奇跡なんですね。」


 神職は穏やかに頷いた。


 「だから人は、感謝を捧げるのでしょう。」


 ◇


 宿へ戻る道。


 誰もすぐには話さなかった。


 沈黙が心地よかった。


 澪が旅日記を開き、今日のページにゆっくりと書き記す。


 > 『祝詞の意味は分からなかった。

 > でも、その響きは海へ届き、人の心へも届いていた。』


 蒼真はその下へ、一行だけ添えた。


 > 『祈りとは、神様へ届く言葉ではなく、明日も大切な人が無事でありますようにと願う、人の心そのものなのだ。』


 ページを閉じると、一陣の風が森を渡った。


 楠の葉が静かに揺れ、夕暮れの空へ舞い上がる。


 その葉はまるで、この島で千年以上繰り返されてきた祈りが、今日も変わらず海へ送り出された証のようだった。

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