第十六話 神代の航路
翌朝。
島を吹き抜ける風は、昨日より少しだけ涼しかった。
宿の縁側で朝食をいただいたあと、女将が地図を広げる。
「時間があるなら、ここへ寄ってみませんか。」
指差した先には、小さな展望台の印があった。
「島の人は、昔から海を眺めたくなると、あそこへ登るんですよ。」
「ありがとうございます。」
蒼真は地図を大切に折りたたんだ。
◇
山道は緩やかだった。
木々の間を抜ける風が心地よい。
鳥のさえずりに混じって、ときおり船の汽笛が遠くから聞こえてくる。
「こんなところまで聞こえるんだ。」
陸が空を見上げる。
タケルは微笑んだ。
「海は遠くても、島ではいつも近くにある。」
◇
三十分ほど歩くと、視界が一気に開けた。
そこには、瀬戸内海がどこまでも広がっていた。
大小さまざまな島々。
白い橋が海を渡り、ゆっくりと船が航路を進んでいく。
朝日に照らされた海面は、無数の光を散りばめた鏡のようだった。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
ただ、その景色を見つめていた。
「……きれい。」
澪がようやくつぶやく。
その一言で十分だった。
◇
タケルが展望台の手すりに手を置く。
「蒼真。」
「はい。」
「お前は、この海に何が見える。」
蒼真は目を細めた。
船。
島。
橋。
空。
しばらく考えて答える。
「人の暮らし……かな。」
タケルは静かに頷く。
「昔も同じだった。」
「橋はなかった。」
「船だけが、人と人を結んでいた。」
風が吹く。
海の匂いが山の上まで届く。
「神々は、この海を支配していたわけではない。」
「人に命じることもしなかった。」
「では、何を?」
澪が尋ねる。
タケルは海へ目を向けたまま答える。
「見守っていた。」
◇
「嵐の日も。」
「凪の日も。」
「豊漁の日も。」
「誰も帰らなかった日も。」
「海へ祈る人々を、ただ静かに見守っていた。」
蒼真は因島で聞いた「潮待ち」の話を思い出す。
向島の漁師の言葉。
大山祇神社の祝詞。
すべてが一本の糸で結ばれていく。
「だから……。」
「航路なんですね。」
タケルは穏やかに微笑んだ。
「そうだ。」
「神代の航路とは、神が通る道ではない。」
「人が安心して歩き、生きて、帰ることのできる道だ。」
◇
その時、一艘の小さな漁船が海を横切った。
船尾に白い航跡が伸びていく。
「あれも航路。」
陸が言う。
「フェリーも航路。」
「橋も航路。」
潮が続ける。
「旅日記も、誰かへつながる航路なのかも。」
澪が笑った。
「言葉もそうだね。」
「人から人へ渡っていく。」
タケルは四人を見回す。
「神代の航路は、海だけではない。」
「人の心にもある。」
◇
蒼真は旅日記を開く。
展望台のベンチに腰掛け、静かにペンを走らせた。
> 『神代の航路とは、神が歩いた道ではない。
>
> 人が誰かを想い、無事を願い、また帰ってこられるようにつないできた道だった。』
書き終えると、ページの端へ小さく島々の形を描き添える。
向島。
因島。
大三島。
その間を一本の線で結んだ。
それは地図の航路でもあり、これまで出会った人たちの笑顔を結ぶ線でもあった。
◇
帰り道。
山道をゆっくり下りながら、蒼真は何気なく振り返る。
展望台はもう木々に隠れて見えない。
それでも、海は変わらずそこにあった。
タケルが静かに言う。
「旅は、景色を忘れてもいい。」
「だが、そこで出会った人の願いだけは忘れるな。」
蒼真は力強く頷く。
「うん。」
「この旅が終わっても、きっと忘れない。」
神代の鍵は、胸元で小さく温もりを返した。
それは何かを導く光ではなく、この旅で結ばれた数え切れない縁を、静かに見守る灯火のようだった。




