第十一話 見送る人
翌朝。
因島の港には、やわらかな朝霧が漂っていた。
海は鏡のように静かで、小さな波だけが岸壁を優しく叩いている。
宿の女将が、玄関先まで見送りに出てくれた。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい。」
澪が笑顔で答える。
「潮の音を聞きながら眠ったのは初めてでした。」
「この島の子どもたちは、その音を子守歌にして育つんですよ。」
女将はそう言って微笑んだ。
四人は思わず海を振り返る。
波の音は、昨日と変わらない。
けれど、その響きは少しだけ近しく感じられた。
◇
橋へ向かう途中、小さな神社の前を通る。
昨日、祭りが開かれていた境内では、総代たちが提灯を片付けていた。
「あっ。」
総代が蒼真たちに気づき、大きく手を振る。
「もう出発かい。」
「はい。」
蒼真が頭を下げる。
「昨日は本当にありがとうございました。」
総代は首を振った。
「礼なんていらん。」
「祭りは、手伝ってくれる人がおるから続くんじゃ。」
少し間を置いて、穏やかに続ける。
「来年もやるけぇ。」
「もし旅の途中やったら、また寄っておくれ。」
その言葉に、潮の表情がふっとほころぶ。
「はい。」
「約束します。」
◇
境内の隅では、昨日太鼓を叩いていた少年が竹ぼうきを持って掃除をしていた。
蒼真に気づくと、少し照れながら近づいてくる。
「昨日……。」
「見てくれて、ありがとう。」
「すごく上手だったよ。」
蒼真がそう言うと、少年は耳まで赤くして笑った。
「来年は、もっと大きな音を出せるようになる!」
その言葉を聞いていた祖父が、少し離れたところで静かに頷いていた。
何も言わない。
けれど、その眼差しには確かな誇らしさがあった。
◇
橋の入り口まで来ると、一台の軽トラックが止まった。
運転席の窓が開く。
みかん畑で出会った女性だった。
「ちょうど配達の途中だったの。」
助手席から、小さな袋を差し出す。
「昨日採れたばかりのレモンです。」
「まだ酸っぱいけど、旅の途中で炭酸水に入れるとおいしいですよ。」
「ありがとうございます。」
「お礼はいいから。」
女性は笑った。
「また実が色づく頃に帰ってきて。」
「その時は、もっと甘いみかんを食べてもらうから。」
約束が、また一つ増えた。
◇
四人は橋を歩き始める。
朝日を受けて白い橋が輝いている。
橋の中ほどまで来たところで、陸が振り返った。
「あ。」
港の方を見ると、小さく人影が見える。
宿の女将。
総代。
少年と祖父。
みかん畑の女性。
昨日、食堂で会った店主までいる。
みんなが、それぞれの場所から手を振っていた。
距離があるから、声は聞こえない。
それでも、伝わってくるものがあった。
「またおいで。」
その一言が、潮風に乗って届いた気がした。
◇
澪は立ち止まり、旅日記を取り出す。
橋の欄干を机代わりにして、一行だけ書き加えた。
> 『人は、見送ることで旅を支え、待つことで帰る場所になる。』
ページを閉じると、タケルが静かに口を開いた。
「神代の昔。」
「旅立つ者には、必ず歌が贈られた。」
蒼真が尋ねる。
「別れの歌?」
「いや。」
タケルはゆっくりと首を振る。
「帰ってくることを願う歌だ。」
「だから旅は、片道ではなかった。」
その言葉に、蒼真は胸が熱くなる。
これまで出会った人たちは、みな「気をつけて」ではなく、「またおいで」と言ってくれた。
それは、帰る場所を与えてくれる言葉だった。
◇
橋の向こうには、新しい島が見えている。
その先には、海を守り続けてきた大いなる神を祀る社がある。
神代の鍵は、朝日に照らされながら、これまででいちばん穏やかな光を宿していた。
急かすような光ではない。
まるで、
「次の祈りが待っている。」
そう語りかけるような、静かな光だった。




