第九話 潮待ちの記憶
翌朝。
因島の空は薄い雲に覆われていた。
日差しはやわらかく、海は銀色に光っている。
四人は港から少し離れた、小さな郷土資料館を訪れた。
木造の建物は決して大きくはない。
けれど、中には島の人たちが大切に守ってきた歴史が静かに息づいていた。
◇
展示室には、古い海図や木製の櫂、船大工が使っていた鉋や墨壺が並んでいる。
壁には、瀬戸内海の潮流を描いた大きな地図。
複雑に入り組んだ流れが、まるで生き物のように海を巡っていた。
「こんなに流れが違うんだ……。」
陸が目を見張る。
「同じ海なのに。」
その声に応えるように、一人の男性が近づいてきた。
七十代くらいだろうか。
胸には資料館の名札が付いている。
「初めて見ると、不思議じゃろう。」
穏やかな笑顔でそう言った。
◇
「村上海賊って、強い武士だったんですよね?」
陸が尋ねる。
男性は少し笑って首を横に振る。
「もちろん戦うこともあった。」
「でも、それだけじゃない。」
展示されていた古い海図を指差しながら続ける。
「この海は、潮の流れがとても速い。」
「場所によっては、一日に何度も向きが変わる。」
「それを知らずに船を出せば、岩へ流されることもある。」
蒼真たちは真剣に耳を傾ける。
「だから村上海賊は、潮を読み、船を導いた。」
「荷を運ぶ商人も。」
「旅人も。」
「時には朝廷の船も。」
「安全に通れるよう、海の道を守っていたんじゃ。」
◇
澪は展示されていた小さな木札を見つめる。
そこには古い文字で「潮待」と記されていた。
「これは何ですか?」
「潮待ちじゃ。」
男性は懐かしそうに目を細める。
「急いでも、潮には勝てん。」
「昔の船は、潮が変わるまで港で待った。」
「その間に人は飯を食べ、話をし、町はにぎわう。」
「だから港町は、人と文化が集まる場所になったんよ。」
蒼真は静かに頷く。
「待つ時間も、旅の一部だったんですね。」
「その通り。」
男性は嬉しそうに笑った。
「今は『待つ』ことを無駄だと思う人も多い。」
「でもな。」
「待ったからこそ出会えた人も、おるんじゃよ。」
◇
その言葉に、四人は顔を見合わせる。
向島で出会った郵便屋。
漁師。
みかん農家。
食堂の店主。
もし急いでいたら、誰にも会えなかった。
神代の鍵が胸元でほんのりと温もりを帯びる。
タケルは小さく微笑んだ。
「昔の神守も、潮待ちをしていた。」
「え?」
蒼真が振り向く。
「神守は急がなかった。」
「風を待ち、人を待ち、言葉を待った。」
「急いで集めた歌は、人の心に届かない。」
その声は静かだったが、どこか懐かしさを帯びていた。
◇
資料館を出ると、港のベンチに腰を下ろした。
船が一隻、ゆっくりと岸を離れていく。
蒼真は旅日記を開いた。
今日のページには、資料館の男性の言葉を書き留める。
> 「急いでも、潮には勝てん。」
その下に、自分の言葉を添えた。
> 「人生にも、潮待ちの時間がある。その時間があるから、人は誰かと出会える。」
書き終えると、潮風がページをそっと揺らした。
澪が日記をのぞき込み、微笑む。
「この旅日記、少しずつ厚みが増してきたね。」
蒼真は表紙を撫でる。
「最初は旅の記録だと思っていた。」
「でも今は違う。」
「これは、出会った人たちから預かった言葉なんだ。」
タケルは遠くの海を見つめながら、静かに頷く。
「その日記は、いつか誰かの旅を支える。」
「昔の歌が、お前たちを導いたようにな。」
港には穏やかな風が吹いていた。
その風は、昔も今も変わらず、瀬戸内の島々を結び続けている。




