第七話 またおいで
朝日が海の向こうからゆっくりと昇る。
港の水面は淡い橙色に染まり、漁船が静かに沖へ向かっていた。
四人は宿の玄関で靴紐を結び直す。
今日はいよいよ、因島へ向かう日だった。
「お世話になりました。」
蒼真たちが頭を下げると、宿の女将は笑顔で送り出してくれた。
「気をつけて。」
「橋の上は風が強い日もあるからね。」
「はい。」
澪も深く一礼する。
女将は少しだけ考えてから、優しく言った。
「旅は、予定どおりにいかない日もあります。」
「でも、そんな日ほど忘れられないものですよ。」
蒼真はその言葉を胸にしまった。
◇
港へ向かう途中、小さな郵便局の前を通る。
赤い郵便バイクがちょうど出発するところだった。
「あっ。」
郵便屋が四人に気づき、ヘルメットを軽く持ち上げる。
「もう出発か。」
「はい。」
「因島へ向かいます。」
郵便屋は少しだけ目を細めた。
「ええ旅になっとるか?」
「はい。」
蒼真は迷わず答えた。
「たくさんの人に会えました。」
「それが一番じゃ。」
郵便屋は笑う。
「景色は季節で変わる。」
「でも、人は会わんと分からん。」
その言葉に四人は頷いた。
「また来ます。」
「待っとるよ。」
短い言葉だった。
けれど、その一言だけで、向島は「通り過ぎる場所」ではなくなった。
◇
港では、昨日の漁師が網を干していた。
蒼真たちを見ると、大きく手を振る。
「おーい!」
「今日は橋を渡るんか!」
「はい!」
陸が元気よく応える。
漁師は近づいてきて、小さな紙袋を差し出した。
「途中で腹が減るじゃろ。」
中には、自家製の小さなじゃこ飯のおにぎりが入っていた。
「朝、女房が作ったんじゃ。」
「えっ、いただいていいんですか?」
「旅人がお腹を空かせちゃいかん。」
照れくさそうに笑うその姿に、四人も思わず笑顔になる。
◇
橋へ向かう坂道の途中で、みかん畑の女性が作業をしていた。
「おはようございます!」
潮が手を振る。
女性も帽子を取って応えた。
「いいお天気ですね。」
「今日は橋がきれいに見えますよ。」
振り返ると、朝日に照らされた海の向こうへ白い橋が伸びていた。
「秋になったら、またおいで。」
女性が笑う。
「今度は、甘くなったみかんを食べてもらいたいから。」
蒼真はポケットに入れた青いみかんへそっと触れた。
「約束します。」
その実が橙色に色づく頃、もう一度この島へ帰ってきたい。
そんな気持ちが自然に湧いてきた。
◇
橋のたもとまで来ると、四人は同時に振り返った。
港。
みかん畑。
郵便局。
朝市。
小さな食堂。
ほんの二日ほどしか過ごしていないのに、どれも懐かしく思える。
澪が静かに言う。
「不思議だね。」
「『さようなら』って気持ちにならない。」
「うん。」
蒼真も頷く。
「『行ってきます』なんだ。」
タケルが穏やかに笑う。
「それでいい。」
「帰る場所とは、長く住んだ場所だけではない。」
「心が『また会いたい』と願った場所も、帰る場所になる。」
◇
四人は橋へ一歩を踏み出した。
潮風が頬をなでる。
その時、胸元の神代の鍵が、朝日に溶けるような柔らかな光を宿した。
蒼真はそっと鍵を握る。
もう、鍵が光る理由を探そうとは思わなかった。
この旅で出会った人たちの笑顔。
「またおいで」という言葉。
それらすべてが、神代の鍵に新しい歌を刻んでいる気がしたからだ。
橋の向こうには、次の島――因島が静かに待っている。
旅日記
その日の昼休み、橋の途中の展望所で蒼真は旅日記を開いた。
新しいページに、向島の思い出を一つひとつ書いていく。
郵便屋さんの葉書。
漁師さんの港の話。
みかん畑から見た海。
港の食堂の鯛めし。
朝の「またおいで」。
最後に、少し考えてから、こう記した。
「旅は、新しい景色を集めることではない。『おかえり』と言ってくれる場所を増やしていくことなのかもしれない。」
ページを閉じると、風が一枚だけ紙をめくった。
そこには、旅の最初の日に書いた言葉があった。
「神話を探しに行こう。」
蒼真は少し笑って、小さくつぶやく。
「違ったな。」
「神話は、探すものじゃなかった。」
「人が大切に守り続けてきた暮らしの中に、ずっと生きていたんだ。」
その言葉を胸に、四人は新しい橋へと歩みを進めた。




