第五話 潮を読む人
翌朝。
向島の港は、朝靄に包まれていた。
海と空の境目が溶け合い、島影が淡く浮かんでいる。
岸壁では、小さな漁船が出港の準備をしていた。
網を整える音。
ロープを引く音。
カモメの鳴き声。
どれも、この島の朝を知らせる音だった。
「少し港を歩いてみよう。」
蒼真の提案に、四人は海辺へ向かう。
◇
一隻の漁船のそばで、年配の漁師が海を見つめていた。
時計を見ることもなく、空を見上げることもない。
ただ、海面だけを静かに眺めている。
陸が小声で言った。
「何を見てるんだろう。」
その時だった。
漁師が振り返り、笑った。
「潮じゃよ。」
「今日は少し東へ流れとる。」
四人は海を見つめる。
けれど、違いはまったく分からない。
漁師は少しだけしゃがみ込み、小さな流木を海へ浮かべた。
流木はゆっくりと沖へ流れ、途中で向きを変えた。
「見えたか?」
蒼真は目を細める。
「あ……。」
「流れが変わった。」
「そう。」
漁師は満足そうに頷く。
「海は毎日違う。」
「同じ日は、一日もない。」
◇
四人は漁師の船へ招かれた。
「沖まで出るわけじゃない。」
「港の近くを一回りするだけじゃ。」
船が岸を離れる。
朝の港は、陸から見る景色とはまるで違っていた。
家々の屋根。
坂道。
寺の鐘。
学校へ向かう子どもたち。
島の暮らしが、一枚の絵のように広がっている。
「島って……。」
澪が静かに呟く。
「海から帰ってくる場所なんだね。」
漁師は嬉しそうに笑った。
「その通りじゃ。」
「だから港は、島の玄関なんよ。」
◇
船をゆっくり流しながら、漁師は話し始める。
「昔は、この海が道じゃった。」
「橋なんかない。」
「船で学校へ行く子もおった。」
「買い物も。」
「病院も。」
「祭りも。」
「全部、船じゃ。」
蒼真は宮島で受け取った古い海図を思い出す。
島々を結ぶ細い線。
あれは、ただの航路ではなかった。
人々の暮らしそのものだったのだ。
◇
漁師は船を止めた。
「耳を澄ましてみな。」
四人は静かに目を閉じる。
聞こえるのは波だけ……と思った、その時。
沖のほうから、かすかにエンジン音。
少し離れた場所では櫂が水をかく音。
港からは市場の鐘。
風が運ぶ寺の鐘の余韻。
そして、カモメ。
「全部、島の時計じゃ。」
漁師が笑う。
「時間は時計だけが教えるんじゃない。」
「音も、季節も、潮も教えてくれる。」
◇
蒼真は胸元の神代の鍵へ手を添える。
今日は光らなかった。
けれど、不思議とそれが寂しくなかった。
神代の鍵は、何かを見せるためではない。
見落としていたものに気づかせてくれるためにある。
そんな気がした。
◇
港へ戻ると、漁師は船を岸へ寄せた。
「兄ちゃん。」
蒼真へ向き直る。
「旅は急ぐな。」
「海を急ぐ船は、港を見失う。」
「人も同じじゃ。」
その言葉は、静かに胸へ届いた。
蒼真は深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
漁師は照れくさそうに笑い、網を肩へ担ぐ。
「また来い。」
「今度は鯛がうまい季節にな。」
その背中を見送りながら、四人はしばらく港に立ち尽くしていた。
朝日を受けた海は、何事もなかったように穏やかだった。
その夜、旅日記には新しい一文が加わる。
向島の漁師さんの言葉。
『海を急ぐ船は、港を見失う。人も同じじゃ。』
その下に、蒼真は静かに書き添えた。
『旅は目的地へ急ぐものではなく、帰りたい場所を増やしていくものなのかもしれない。』
ペンを置いた蒼真は、窓の外に広がる夜の海を眺めた。
神代の航路はまだ続いている。
けれど今、その道を照らしているのは神々の光だけではない。
島で出会った人々の言葉もまた、小さな灯となって、旅人たちの心を照らしていた。




