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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第五章 海を結ぶ橋

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第四話 みかん畑の坂道

向島を歩き始めて一時間ほどが過ぎた。


 海沿いの道から一本入ると、景色はゆるやかな坂道へ変わる。


 道の両側には、みかん畑がどこまでも広がっていた。


 濃い緑の葉の間から、小さな実が顔をのぞかせている。


 まだ青い。


 秋になれば、きっと山が橙色に染まるのだろう。


 「この景色、好きだな。」


 澪が足を止める。


 潮風に混じる柑橘の香りは、海辺とはまた違う優しさがあった。


 「海の匂いなのに、甘い。」


その夜の旅日記


蒼真は青いみかんを机に置き、静かにペンを走らせた。


向島で出会ったみかん農家の言葉。


『歩いてくれる人を見ると、島も喜んでいる気がします。』


そして、もう一つ。


『風に吹かれて、雨に打たれて、それでも育つから甘くなる。』


ページの最後に、蒼真は自分の言葉を書き添えた。


『急いで実るより、季節をかけて育つもののほうが、人の心に長く残る。』


ページを閉じると、窓の外では瀬戸内の海が夕日に染まっていた。


旅は、まだ始まったばかりだった。


 陸が大きく息を吸い込む。


 「こんな匂い、初めてだ。」


 ◇


 坂の途中で、一人の女性が脚立に乗って枝の手入れをしていた。


 三十代くらいだろうか。


 帽子をかぶり、首には汗をぬぐう手ぬぐい。


 四人に気づくと、笑顔で会釈した。


 「こんにちは。」


 「こんにちは。」


 蒼真たちも頭を下げる。


 「旅ですか?」


 「はい。しまなみ海道を歩いています。」


 女性は嬉しそうに笑った。


 「歩いてくれる人を見ると、島も喜んでいる気がします。」


 その言葉に、潮が目を丸くする。


 「島が……喜ぶ?」


 「ええ。」


 女性はみかんの木を優しく見上げた。


 「車だと通り過ぎちゃう景色も、歩くと見つけてもらえるでしょう?」


 「この木も。」


 「この風も。」


 「この匂いも。」


 「だから歩いてくれる人が好きなんです。」


 ◇


 女性は一本の枝をそっと持ち上げる。


 「みかんはね。」


 「甘やかしすぎても駄目なんですよ。」


 陸が不思議そうな顔をする。


 「そうなんですか?」


 「雨が多すぎても。」


 「水をあげすぎても。」


 「実は甘くならないんです。」


 蒼真は薬草を育てていた祖母の言葉を思い出した。


 「人も似てるかもしれない。」


 思わず口にすると、女性は笑顔で頷いた。


 「そうかもしれませんね。」


 「風に吹かれて。」


 「雨に打たれて。」


 「それでも育つから、甘くなる。」


 ◇


 その言葉は、四人それぞれの胸に残った。


 神代の鍵は今日も静かだ。


 でも、心の中では何かが少しずつ育っている。


 きっと、それでいいのだ。


 ◇


 女性は畑の端まで案内してくれた。


 そこから見えた景色に、四人は思わず立ち尽くす。


 青い海。


 大小の島々。


 白い橋が空へ向かって伸びている。


 「すごい……。」


 澪が息をのむ。


 「毎日見ても飽きませんよ。」


 女性は穏やかに言う。


 「だから、この島で暮らしています。」


 「都会へ出たこともありました。」


 「でも結局、この景色が恋しくて帰ってきました。」


 蒼真はその言葉を聞いて、鞆の浦の源蔵や宮島で出会った人たちを思い出す。


 帰る場所。


 この旅では、その言葉に何度も出会う。


 人は景色へ帰るのではない。


 景色の中で暮らす人たちのもとへ帰るのだ。


 ◇


 別れ際、女性はまだ青いみかんを一つ手に取った。


 「これはまだ食べられません。」


 「でも。」


 蒼真へ手渡す。


 「秋になったら、この木を思い出してください。」


 「季節は巡ります。」


 「旅も、きっとまたここへ戻ってきます。」


 蒼真は両手で受け取る。


 「ありがとうございます。」


 その青い実は、未来への約束のように、手のひらの中で小さな重みを感じさせた。

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