第四話 みかん畑の坂道
向島を歩き始めて一時間ほどが過ぎた。
海沿いの道から一本入ると、景色はゆるやかな坂道へ変わる。
道の両側には、みかん畑がどこまでも広がっていた。
濃い緑の葉の間から、小さな実が顔をのぞかせている。
まだ青い。
秋になれば、きっと山が橙色に染まるのだろう。
「この景色、好きだな。」
澪が足を止める。
潮風に混じる柑橘の香りは、海辺とはまた違う優しさがあった。
「海の匂いなのに、甘い。」
その夜の旅日記
蒼真は青いみかんを机に置き、静かにペンを走らせた。
向島で出会ったみかん農家の言葉。
『歩いてくれる人を見ると、島も喜んでいる気がします。』
そして、もう一つ。
『風に吹かれて、雨に打たれて、それでも育つから甘くなる。』
ページの最後に、蒼真は自分の言葉を書き添えた。
『急いで実るより、季節をかけて育つもののほうが、人の心に長く残る。』
ページを閉じると、窓の外では瀬戸内の海が夕日に染まっていた。
旅は、まだ始まったばかりだった。
陸が大きく息を吸い込む。
「こんな匂い、初めてだ。」
◇
坂の途中で、一人の女性が脚立に乗って枝の手入れをしていた。
三十代くらいだろうか。
帽子をかぶり、首には汗をぬぐう手ぬぐい。
四人に気づくと、笑顔で会釈した。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
蒼真たちも頭を下げる。
「旅ですか?」
「はい。しまなみ海道を歩いています。」
女性は嬉しそうに笑った。
「歩いてくれる人を見ると、島も喜んでいる気がします。」
その言葉に、潮が目を丸くする。
「島が……喜ぶ?」
「ええ。」
女性はみかんの木を優しく見上げた。
「車だと通り過ぎちゃう景色も、歩くと見つけてもらえるでしょう?」
「この木も。」
「この風も。」
「この匂いも。」
「だから歩いてくれる人が好きなんです。」
◇
女性は一本の枝をそっと持ち上げる。
「みかんはね。」
「甘やかしすぎても駄目なんですよ。」
陸が不思議そうな顔をする。
「そうなんですか?」
「雨が多すぎても。」
「水をあげすぎても。」
「実は甘くならないんです。」
蒼真は薬草を育てていた祖母の言葉を思い出した。
「人も似てるかもしれない。」
思わず口にすると、女性は笑顔で頷いた。
「そうかもしれませんね。」
「風に吹かれて。」
「雨に打たれて。」
「それでも育つから、甘くなる。」
◇
その言葉は、四人それぞれの胸に残った。
神代の鍵は今日も静かだ。
でも、心の中では何かが少しずつ育っている。
きっと、それでいいのだ。
◇
女性は畑の端まで案内してくれた。
そこから見えた景色に、四人は思わず立ち尽くす。
青い海。
大小の島々。
白い橋が空へ向かって伸びている。
「すごい……。」
澪が息をのむ。
「毎日見ても飽きませんよ。」
女性は穏やかに言う。
「だから、この島で暮らしています。」
「都会へ出たこともありました。」
「でも結局、この景色が恋しくて帰ってきました。」
蒼真はその言葉を聞いて、鞆の浦の源蔵や宮島で出会った人たちを思い出す。
帰る場所。
この旅では、その言葉に何度も出会う。
人は景色へ帰るのではない。
景色の中で暮らす人たちのもとへ帰るのだ。
◇
別れ際、女性はまだ青いみかんを一つ手に取った。
「これはまだ食べられません。」
「でも。」
蒼真へ手渡す。
「秋になったら、この木を思い出してください。」
「季節は巡ります。」
「旅も、きっとまたここへ戻ってきます。」
蒼真は両手で受け取る。
「ありがとうございます。」
その青い実は、未来への約束のように、手のひらの中で小さな重みを感じさせた。




