第二話 橋の上で
翌朝。
空は雲ひとつない青空だった。
宿の前で深く息を吸うと、潮の香りに混じって、どこか甘い柑橘の香りが漂う。
「今日はいい天気になりそうだね。」
澪が空を見上げる。
陸は待ちきれない様子で地図を広げていた。
「まずは尾道へ移動して、そこから橋を渡るんだよね!」
「しまなみ海道は、島を一つずつ巡れるんだ。」
「急がなくていい旅になりそう。」
潮の言葉に、蒼真も笑顔で頷いた。
「この旅には、その歩き方が合ってる。」
◇
尾道へ着くと、港には朝の光が降り注いでいた。
フェリーが静かに行き交い、自転車を押す旅人たちが思い思いの速度で橋へ向かっていく。
リュック一つの青年。
夫婦でゆっくり歩く二人。
海外から来たサイクリスト。
制服姿で自転車通学する高校生。
同じ橋を渡る人でも、その理由は一人ひとり違う。
蒼真はその光景を眺めながら、ふと思う。
――橋は、人の数だけ物語を運んでいる。
◇
最初の橋へ続く坂道を上る。
眼下には尾道の町並みと、きらめく海。
向こうには、緑豊かな島々が幾重にも重なって見えた。
「こんなに島があるんだ……。」
澪が感嘆の声を漏らす。
タケルが静かに言う。
「瀬戸内海には、大小合わせて七百を超える島がある。」
「それぞれに暮らしがあり、それぞれに祈りがある。」
蒼真はその言葉を胸に刻んだ。
この旅で出会うのは、有名な場所だけではない。
そこに暮らす人々の時間なのだ。
◇
やがて、大きな橋へ足を踏み入れる。
海の上を吹き抜ける風が心地よい。
橋の上から見下ろすと、小さな漁船がゆっくりと航跡を描いていた。
陸は立ち止まり、欄干に手を添える。
「橋ってすごいな。」
「海を越えてるのに、歩いてると陸の続きみたいだ。」
その時、前から一人の男性が自転車を押して歩いてきた。
ヘルメットを脱ぎ、橋の真ん中で海を眺めている。
日に焼けた顔には、穏やかな笑みがあった。
「こんにちは。」
蒼真が声をかける。
「こんにちは。」
男性は笑顔で応えた。
「毎年、この橋を渡るんですよ。」
「毎年ですか?」
「ええ。」
男性は海へ目を向けたまま話す。
「昔、一緒に走っていた友人がいたんです。」
「病気で亡くなってしまってね。」
少しだけ風が吹く。
「だから今は、一人で走っています。」
「でも、不思議なんです。」
「この橋を渡っていると、『今年も来たな』って、隣で笑っている気がする。」
四人は静かにその話を聞いていた。
◇
男性は胸ポケットから一枚の古い写真を取り出した。
二人並んで自転車を押し、笑っている写真だった。
「橋ができた年に撮った写真です。」
「約束したんですよ。」
『毎年来よう』って。
「約束は、一人になっても続けられる。」
「そう思ってます。」
写真をしまう手つきは、とても大切な宝物に触れるようだった。
蒼真は深く頭を下げる。
「素敵なお話を、ありがとうございます。」
男性は照れくさそうに笑い、自転車へまたがる。
「皆さんも、いい旅を。」
風を受けながら走り去るその背中は、とても軽やかだった。
◇
しばらく誰も話さなかった。
やがて澪がぽつりと言う。
「約束って、人がいなくなっても終わらないんだね。」
タケルが頷く。
「だから、人は祈る。」
「誰かを忘れないために。」
「そして、自分も忘れられないように。」
神代の鍵が、胸元でかすかに温かくなる。
光ではなく、鼓動のようなぬくもり。
蒼真はそっと握りしめた。
この旅で出会う人たちは、みな何かを守っている。
祭り。
島。
家族。
約束。
思い出。
そして、その一つひとつが、神話ではなく**「人の物語」**だった。
橋の向こうに、最初の島が静かに待っている。
その島では、どんな出会いが待っているのだろう。
蒼真は潮風を胸いっぱいに吸い込み、仲間たちとともに、ゆっくりと歩き始めた。




