第一話 白い航跡
宮島を離れた船は、瀬戸内海を静かに西へ進んでいた。
甲板へ出ると、潮風が頬を優しくなでる。
蒼真は船尾へ歩き、白く伸びる航跡を見つめた。
海へ刻まれた一本の道。
けれど、その道は少しずつ波へ溶け、やがて跡形もなく消えていく。
「航跡って、不思議だね。」
澪が隣へ並ぶ。
「消えちゃうのに、ちゃんと前へ進んだ証なんだ。」
蒼真は静かに頷いた。
「旅も同じなのかもしれない。」
思い出は形にならない。
けれど、確かに人を変えていく。
◇
船室では、陸が地図を大きく広げていた。
「見て!」
「しまなみ海道って、橋が六本もあるんだ!」
潮も身を乗り出す。
「全部渡るの?」
「たぶん!」
「楽しそう!」
その様子を見て、澪が笑う。
「二人とも、もう遠足の前の日みたい。」
「だって橋だよ!」
陸は少年のような笑顔を浮かべた。
「昔は船しかなかった海を、自分の足で渡れるんだ。」
◇
タケルは窓の外を眺めながら、静かに語り始めた。
「橋は便利なものだ。」
「だが、人と人を結ぶものは、橋だけではない。」
蒼真は耳を傾ける。
「昔、島から島へ渡る船は、人だけでなく、祭りも運んだ。」
「歌も。」
「祈りも。」
「悲しみも。」
「喜びも。」
「海は、それらすべてを受け止めてきた。」
船は揺れることなく進んでいく。
穏やかな瀬戸内海は、まるでその言葉を静かに肯定しているようだった。
◇
昼過ぎ。
目的地が近づく頃、一人の年配の女性が四人に声をかけた。
「旅行ですか?」
「はい。」
蒼真が答えると、女性は柔らかく笑った。
「私は今治へ帰るところなんです。」
「娘の家へ行っていてね。」
話を聞くと、初孫が生まれたばかりだという。
スマートフォンには、小さな赤ちゃんの写真が何枚も並んでいた。
「昨日まで抱っこしていたのに、もう会いたくなってしまって。」
照れくさそうに笑う女性の目は、とても優しかった。
「今度は向こうが遊びに来る約束なんですよ。」
澪が微笑む。
「楽しみですね。」
「ええ。」
「橋ができて、本当に近くなりました。」
「昔は、一日がかりだったんですよ。」
その言葉に、蒼真は地図へ目を落とした。
橋は、ただ海を渡るためのものではない。
会いたい人へ会いに行くための道でもある。
◇
夕方。
船が港へ着く。
潮の香りの中に、どこか柑橘の甘い香りが混じっていた。
岸壁では、自転車を押す旅人たちが笑顔で橋の方へ向かっている。
外国から来た人もいる。
家族連れもいる。
一人で走る人もいる。
それぞれが、自分だけの旅を始めようとしていた。
陸が目を輝かせる。
「見て!」
「みんな楽しそう!」
その姿を見ながら、蒼真は思う。
旅は競争ではない。
急ぐものでもない。
誰かと比べるものでもない。
自分の歩幅で、一歩ずつ進めばいい。
◇
その日の宿は、小さな港町の宿だった。
夕食には、瀬戸内で獲れた鯛と、炊きたてのご飯。
そして、島で採れた柑橘を使った小鉢が並ぶ。
「いただきます。」
四人は手を合わせる。
食卓を囲みながら、澪がぽつりとつぶやく。
「最近思うんだ。」
「旅って、景色を見ることだけじゃないね。」
「うん。」
蒼真も頷く。
「人に会うことなんだと思う。」
タケルは静かに微笑む。
「その答えに気づいたなら、お前たちはもう半分、神守だ。」
「神守とは、神の言葉を知る者ではない。」
「人の願いに耳を傾けられる者のことだ。」
食卓に、穏やかな沈黙が流れる。
その言葉は、誰の胸にも静かに染み込んでいった。
窓の外では、しまなみの海に月が映っている。
明日から始まる橋の旅は、きっとまた、新しい出会いを運んできてくれる。




