第五十六話 潮風の手紙
宮島で迎える最後の朝。
宿の障子を開けると、海は穏やかな青を湛えていた。
遠くでフェリーの汽笛が響く。
その音に合わせるように、島の一日がゆっくりと始まっていく。
「今日で宮島ともお別れか。」
陸が少し名残惜しそうにつぶやく。
澪は微笑んだ。
「『お別れ』じゃなくて、『また来る日まで』でしょ。」
陸も照れくさそうに笑う。
「そうだった。」
◇
朝食を終え、宿を出ようとした時だった。
女将が小走りに追いかけてくる。
「蒼真さん。」
「これ、お預かりしていました。」
一通の封筒だった。
和紙で作られた、素朴な封筒。
宛名には、達筆な文字で書かれている。
――神守の旅人へ。
「誰からですか?」
「昨夜遅くに、お宮の方がお持ちになりました。」
女将も詳しいことは知らないらしい。
◇
四人は海の見えるベンチへ腰掛ける。
蒼真がそっと封を開いた。
中には、一枚の便箋。
そして、一枚の古い地図。
便箋には短くこう記されていた。
---
歌は集まり始めた。
だが、海はまだ半分しか語っていない。
瀬戸内には、もう一つの門がある。
そこを訪ねなさい。
島々を結ぶ風が、次の歌を運ぶ。
---
差出人の名前はない。
ただ、小さく朱印だけが押されていた。
蒼真はその印を見て首をかしげる。
「見たことがない……。」
すると潮が地図を広げた。
古い海図のようだった。
瀬戸内海に細い線が引かれている。
島から島へ。
港から港へ。
まるで昔の船乗りだけが知る航路のように。
その線は、西へ。
さらに西へと続いていた。
そして一か所だけ、小さく丸が付けられている。
澪が目を凝らす。
「ここ……。」
「島じゃない。」
「橋?」
源蔵から以前聞いた話がよみがえる。
昔、人々は潮を読み、風を読み、島々を渡った。
やがて時代が変わり、人は橋を架けた。
海を越える方法は変わっても、人と人を結びたいという願いは変わらない。
タケルが静かにうなずく。
「次は、その願いに会いに行こう。」
◇
宿を出る前に、四人はもう一度、海へ向かって歩いた。
潮は引き始め、大鳥居の足元が少しずつ姿を現している。
昨日とはまるで違う景色。
澪が旅日記を開く。
新しいページの最初に書いたのは、たった一行だった。
『海は、毎日違う顔で迎えてくれる。だから、何度でも帰りたくなる。』
蒼真はその文字を見て笑う。
「この旅日記、いつか一冊の本になりそうだ。」
「その時は、写真も載せたいな。」
陸がカメラを構える。
「じゃあ、みんな並んで!」
四人は大鳥居を背に並び、シャッターが切られた。
その瞬間の笑顔は、どこか旅の始まりよりも大人びて見えた。
◇
フェリーが岸を離れる。
宮島は少しずつ遠ざかる。
朱の大鳥居も、小さく、小さくなっていく。
蒼真は手紙をもう一度開いた。
そして地図の丸印を見つめる。
その場所の名前は、かすれた墨でこう記されていた。
――来島。
タケルが穏やかに微笑む。
「村上海賊が潮を読み、海の道を守った場所。」
「人と海が最も深く結ばれた土地の一つだ。」
潮が目を輝かせる。
「しまなみ海道……!」
陸も身を乗り出す。
「橋を渡る旅が始まるんだ!」
蒼真は瀬戸内の青い海を見渡した。
島と島を結ぶ橋。
昔は船がつないだ道を、今は橋がつないでいる。
けれど、人と人を結ぶ想いだけは、千年前と少しも変わらない。
フェリーは白い航跡を描きながら、西へ進む。
その先には、新しい島、新しい出会い、そして新しい祈りが待っていた。




