第五十二話 潮が満ちる音
翌朝。
まだ島が眠りから覚めきらない頃、蒼真は一人で宿を出た。
空は淡い藍色。
東の空だけが、少しずつ茜色に染まり始めている。
昨日、人で賑わっていた参道も、今は足音一つ響かない。
潮の香りだけが静かに漂っていた。
◇
海辺へ出ると、朱の大鳥居が朝焼けの中に立っていた。
満ち潮。
海面は鏡のように穏やかで、大鳥居の姿をそのまま映している。
蒼真は堤防へ腰を下ろした。
何も考えず、ただ景色を眺める。
旅に出てから、こんな時間が好きになった。
急がない朝。
誰とも話さない朝。
景色だけが語りかけてくる朝。
◇
「早起きじゃの。」
振り向くと、一人の老人が竹ぼうきを持って歩いていた。
島で生まれ育ち、毎朝この浜を掃いているという。
「毎日ですか?」
蒼真が尋ねる。
老人は笑って頷いた。
「五十年になるかの。」
「最初は父に連れられて。」
「今はわし一人じゃ。」
そう言いながら、浜に流れ着いた小枝や葉を丁寧に集めていく。
「大変じゃないですか?」
老人は首を横に振る。
「神様のためじゃない。」
「今日ここへ来る人が、気持ちよく歩けるようにな。」
その言葉に、蒼真ははっとした。
祈りとは、特別なことではない。
誰かを思って続ける、小さな積み重ねなのだ。
◇
やがて、澪たちも浜へやって来た。
四人は老人と一緒に、少しだけ浜を掃く。
陸は流木を運び、潮は砂に埋もれた枝を拾う。
澪は落ち葉を集めながら笑う。
「旅先で掃除をするなんて思わなかったね。」
老人は優しく笑った。
「旅人だからこそ、なんじゃよ。」
「この島を好きになったなら、少しだけ恩返しをする。」
「それだけで十分じゃ。」
◇
掃除を終える頃には、朝日が海を黄金色に染めていた。
潮が少しずつ満ちてくる。
波が寄せるたび、大鳥居の足元に小さな音が響く。
ちゃぷん。
ちゃぷん。
規則正しいその音を聞いていると、まるで誰かが静かに拍子を刻んでいるようだった。
タケルが目を閉じる。
「聞こえるか。」
蒼真も耳を澄ませる。
風でもない。
鳥でもない。
波の音に混じって、ごくかすかに人々の歌声のような響きがあった。
それは昔の人々が祭りで歌った声なのか、それとも海が記憶している音なのか。
誰にも分からない。
けれど、不思議と懐かしかった。
◇
老人は空を見上げる。
「この島ではな。」
「潮が満ちる音も、お参りの一つだと言う人がおる。」
「海が毎日、神様へ挨拶をしとるんじゃと。」
蒼真は静かに海を見つめた。
神代の鍵は光らない。
奇跡も起きない。
でも、それでよかった。
目の前には、千年以上変わらず繰り返されてきた景色がある。
その景色こそが、この島の神話なのだから。
◇
宿へ戻る道すがら、参道には少しずつ人が増え始めていた。
修学旅行の学生。
小さな子どもの手を引く家族。
海外から訪れた旅行者。
そして、静かに一礼して鳥居をくぐる地元の人。
蒼真はその姿を見ながら、小さく笑った。
「神様って……。」
澪が振り向く。
「どうしたの?」
「こんなふうに毎日誰かが大切にしてくれる場所なら、ずっとここにいたくなるよね。」
澪も穏やかに頷く。
「だから、千年以上も受け継がれてきたんだね。」
四人は朝日に照らされる参道を、ゆっくりと歩き始めた。
今日もまた、この島で新しい出会いが待っている。




