第四十八話 仙人も酔う島
船はゆっくりと島へ近づいていく。
島影が大きくなるにつれ、緑は濃さを増し、白い岩肌がところどころ顔をのぞかせていた。
「……きれい。」
澪が思わず声を漏らす。
源蔵が穏やかに笑った。
「ここが、仙酔島じゃ。」
「仙人も、この景色に酔うたという言い伝えがある。」
陸が辺りを見回す。
「名前までかっこいいな。」
◇
船着き場に降り立つと、町の喧騒はもう聞こえない。
聞こえるのは、波が岩をなでる音。
風に揺れる木々の葉擦れ。
そして、どこからともなく響く鳥のさえずり。
「空気が違う……。」
蒼真は深く息を吸い込んだ。
潮の香りに、森の匂いが混じっている。
まるで海と山が一つになったような島だった。
◇
源蔵は、島へ入る前に一礼した。
四人も自然とそれにならう。
「島に挨拶ですか?」
澪が尋ねる。
「そうじゃ。」
源蔵はゆっくり頷く。
「昔の人は、山へ入る時も、海へ出る時も、島へ渡る時も、まず挨拶をした。」
「自然を相手にするということは、自分がお邪魔するということじゃからな。」
その言葉は、蒼真の心に静かに残った。
◇
島の遊歩道を歩き始める。
足元には木漏れ日が揺れ、小さな花が風にそよいでいる。
「見て!」
潮がしゃがみ込む。
岩陰に、小さなカニが何匹も歩いていた。
陸も一緒になって眺める。
「こっちにもいる!」
子どものようにはしゃぐ二人を見て、澪と蒼真は顔を見合わせて笑った。
◇
しばらく歩くと、視界が開ける。
目の前には、不思議な形をした大きな岩が並んでいた。
波が長い年月をかけて削り出した岩肌。
自然が作り上げた彫刻のようだった。
源蔵が静かに言う。
「この島には、昔から『岩にも魂が宿る』と言い伝えられとる。」
「だから誰も傷つけん。」
「持ち帰ることもしない。」
蒼真は岩へそっと手を添えた。
冷たく、けれどどこか温もりを感じる。
その瞬間――
神代の鍵が、かすかに震えた。
しかし光は放たない。
ただ、岩の鼓動と呼吸を合わせるように静かに脈打った。
タケルが穏やかに微笑む。
「神代の鍵も、この島に敬意を払っている。」
「ここでは、神話を探す必要はない。」
「神話の中を歩いているのだから。」
◇
四人はさらに森の奥へ進む。
すると、小さな祠が木々の間にひっそりと佇んでいた。
豪華ではない。
誰かが毎日掃き清めているのだろう。
落ち葉ひとつなく、榊には新しい水が供えられている。
「誰がお世話をしているんだろう。」
澪が小さく呟く。
その時、ほうきを持った一人の女性が坂道を上ってきた。
六十代ほどだろうか。
日に焼けた優しい笑顔で、四人に会釈をする。
「こんにちは。」
「旅の方ですか?」
蒼真たちも笑顔で挨拶を返した。
「はい。鞆の浦から来ました。」
女性は祠を見つめながら、静かに言う。
「この島はね。」
「特別なことは何もない島なんです。」
少し間を置いて、柔らかく微笑んだ。
「でも、それが一番の宝なんですよ。」
その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。
風が木々を揺らし、鳥が一羽、青い空へ飛び立っていく。
蒼真は胸の奥で思う。
――守るべきものは、大きな神殿だけじゃない。
毎日誰かが掃き清める小さな祠も。
静かな森も。
島を愛する人の暮らしも。
それらすべてが、神話を未来へつないでいる。
神代の鍵は、何も語らなかった。
ただ、穏やかなぬくもりだけが、蒼真の胸に残っていた。




