第四十七話 潮の道しるべ
昼前。
港には心地よい潮風が吹いていた。
「準備はいいか?」
源蔵が笑顔で手を振る。
岸壁には、小さな木造船が一艘。
昨日見た神秘的な船ではない。
毎日、この海を走る現役の漁船だった。
「今日は神様の船じゃないんですね。」
陸が少し残念そうに言うと、源蔵は豪快に笑った。
「神様も、毎日は働かんからのう。」
その言葉に、みんなが笑う。
◇
船がゆっくりと港を離れる。
エンジンの音が小さく響き、鞆の浦の町並みが少しずつ遠ざかっていく。
振り返ると、石畳の坂道や古い家並み、港を見守る常夜灯が、一枚の絵のように海へ溶け込んでいた。
澪は思わず息をのむ。
「海から見る町って、こんなにきれいなんだ……。」
「昔の人は、みんなこの景色を見ながら帰ってきたんじゃ。」
源蔵の言葉に、蒼真は静かに頷く。
この港は、旅の終わりに「おかえり」と迎えてくれる場所だったのだ。
◇
船は沖へ向かう。
瀬戸内海には、大小さまざまな島が浮かんでいる。
「全部、名前があるんですか?」
潮が尋ねる。
「ああ。」
源蔵は一つひとつ指さしながら教えてくれる。
「あれが仙酔島。」
「あっちは弁天島。」
「昔は、島そのものを神様として大事にしていたんじゃ。」
蒼真はその言葉に、旅の始まりを思い出した。
神社だけではない。
山も。
岩も。
木も。
そして島も。
昔の人は、自然そのものに神様を感じていた。
◇
その時、一羽の白いサギが船のすぐ横を飛んでいく。
羽ばたきも美しく、まるで船を導くようだった。
澪が嬉しそうに指を差す。
「見て!」
陸がカメラを構える。
「待って、写真!」
しかしサギは、ふわりと風に乗って島影の向こうへ消えていった。
「逃げられた……。」
陸が肩を落とすと、源蔵が笑う。
「景色は、目で見るのが一番じゃ。」
「全部を写真には残せん。」
「だから心に残すんじゃよ。」
その言葉に、蒼真は旅日記のことを思い出した。
帰ったら、今日の海を書こう。
今日の風を書こう。
そして、源蔵の言葉も。
◇
しばらく進むと、源蔵は船をゆっくり止めた。
「ここじゃ。」
海は穏やかで、波もほとんどない。
それなのに、海面には不思議な筋が幾重にも浮かんでいた。
「これが……潮の道。」
源蔵が静かに言う。
「目には見えんが、海には道がある。」
「昔の船乗りは、この流れを読んで島から島へ渡った。」
蒼真は海面を見つめる。
最初は何も分からなかった。
だが、目を凝らしているうちに、水の色がわずかに違う場所があることに気づく。
潮の流れが、一本の道のように伸びている。
その瞬間――
胸元の神代の鍵が、ふわりと温かくなった。
しかし、光は放たない。
ただ静かに、その潮の流れへ呼応するように脈打っていた。
タケルが穏やかに言う。
「神代の航路は、空にあるのでも、海の底にあるのでもない。」
「人が海を敬い、自然とともに生きてきた、その記憶の中にある。」
蒼真は大きく息を吸い込んだ。
潮の香り。
風の音。
波のきらめき。
この海そのものが、長い神話を語っているように感じられた。
船は再びゆっくりと港へ向かう。
その帰り道、誰も急いで話そうとはしなかった。
言葉にしなくても、同じ景色を見て、同じ想いを胸に刻んでいたからだ。




