第四十三話 潮待ちの神
夕日が海へ沈もうとしていた。
港は茜色に染まり、海面は鏡のように空を映している。
誰もが、その古い木造船を見つめていた。
帆は張られていない。
櫂を漕ぐ者もいない。
それでも船は、潮に導かれるように静かに港へ近づいてくる。
◇
港で働く人々には、その船は見えていないようだった。
競りを終えた漁師は笑いながら家路につき、子どもたちは堤防を駆け回っている。
船を見つめているのは、蒼真たち四人と源蔵、そしてタケルだけだった。
「見えて……ない?」
澪が小さく呟く。
源蔵は静かに頷いた。
「神代の航路に触れた者だけが見られる船じゃ。」
◇
船が岸壁へ寄る。
音ひとつ立てず、ゆっくりと止まった。
船首には古い紋が刻まれている。
渦を描く波と、一羽の白い鳥。
タケルの表情が変わった。
「あれは……。」
「知ってるの?」
蒼真が尋ねる。
「神守の印だ。」
「今の神守が使う印ではない。もっと昔、この航路を守っていた者たちの印だ。」
◇
蒼真は船へ一歩近づく。
その瞬間、神代の鍵が温かな光を放った。
船の甲板にも淡い金色の光が広がる。
そして、誰もいないはずの船の中央に、一人の老人の姿が浮かび上がった。
透き通るような身体。
風に溶けるような白い衣。
けれど、その眼差しは海よりも深かった。
「……ようやく来たか。」
老人は穏やかに笑う。
「神守の若者よ。」
◇
蒼真は自然と頭を下げていた。
「あなたは……。」
「名は、潮見。」
「この港で、千年あまり潮を見続けてきた者じゃ。」
源蔵も静かに頭を垂れる。
「やはり、あなたでしたか。」
老人は源蔵に微笑み返した。
「よく港を守ってくれた。」
「人が守り続けたからこそ、わしもここに留まれた。」
◇
潮見は港を見渡した。
夕暮れの町。
家々から立ち上る夕餉の煙。
笑い声。
船を洗う漁師。
「昔と景色は変わった。」
「だが、人が海を敬う心は、まだ残っておる。」
その言葉に、蒼真は小豆島で見た祭りを思い出す。
神話は、人が忘れなければ消えない。
形が変わっても、想いは受け継がれる。
◇
潮見は蒼真へ歩み寄る。
「お前は歌を集めているな。」
「はい。」
「三つの歌を受け継ぎました。」
潮見は静かに頷く。
「だが、海は歌だけでは渡れぬ。」
「海が旅人に求めるものを知っておるか?」
蒼真は答えられなかった。
◇
老人は海へ向き直る。
ちょうどその時、沖を一羽の白い海鳥が横切っていく。
「海は急ぐ者を嫌う。」
「風を読み、潮を知り、人を信じる者だけを向こう岸へ運ぶ。」
「それが神代の航路じゃ。」
◇
神代の鍵が再び輝く。
海面に新たな文字が浮かぶ。
――第四の歌は、急がぬ者に授けられる。
――まずは港の人々の願いを知れ。
光は静かに消えた。
澪が小さく息をつく。
「試練……じゃない?」
タケルが首を横に振る。
「今回は違う。」
「まず、人を知ることだ。」
◇
潮見は穏やかに笑う。
「明日、この港では一年に一度の船送りの準備が始まる。」
「昔から続く、小さな行事じゃ。」
「手伝ってはくれんか。」
蒼真たちは顔を見合わせ、笑顔で頷いた。
「もちろんです。」
潮見は満足そうに目を細める。
その姿は夕焼けの中へ少しずつ溶けていった。
港には再び、人々の日常の音だけが残る。
だが蒼真は確かに感じていた。
この港には、まだ語られていない神話が息づいていることを。




