第二十八話 渦の底の約束
「ようやく辿り着いたか」
黒い衣の人物は静かにそう言った。
記憶の海の奥。
揺らめく闇の中に立つその姿は、どこか現実感がなかった。
蒼真は息を呑む。
似ている。
あまりにも似ていた。
顔立ち。
目元。
立ち姿。
まるで未来の自分を見ているようだった。
◇
「……誰だ」
蒼真が問いかける。
しかし男は答えない。
代わりに。
巨大な海の守り神へ視線を向けた。
「長かったな」
その声に。
守り神が小さく震える。
怒りではない。
恐れでもない。
懐かしさだった。
タケルの顔色が変わる。
「まさか……」
潮が振り返る。
「知ってるの?」
タケルは苦い表情で呟いた。
「知っている」
「いや」
「忘れようとしていた」
◇
記憶の海に沈黙が落ちる。
男は笑った。
どこか寂しそうに。
「相変わらずだな、タケル」
その瞬間。
神代の鍵が激しく光る。
文字が浮かび上がる。
今までで最も強く。
――失われた神守
蒼真の心臓が大きく鳴る。
「神守……?」
男は静かに頷いた。
「そうだ」
「かつて神代の航路を巡った者」
澪も陸も言葉を失う。
神守録に記されていない神守。
祖母が語らなかった神守。
それが今。
目の前にいる。
「なぜ記録が残ってないんだ」
蒼真が問う。
男は少しだけ空を見上げる。
海の底なのに。
どこか遠い空を。
「残らなかったんだ」
その声は静かだった。
「誰も覚えていない」
「誰にも語られない」
「祭りが消えれば神話も消える」
蒼真は胸が痛くなる。
目の前の男自身が。
忘れられた存在だった。
「名前は?」
男は少し驚いたような顔をする。
そして。
小さく笑った。
「久しぶりに聞いたな」
「俺の名は」
しかし。
その瞬間。
記憶の海が大きく揺れた。
◇
守り神の額の欠片が輝く。
青い光が海全体へ広がる。
歌が聞こえる。
祖母が歌っていた旋律。
守り神がゆっくりと頭を下げる。
『ありがとう』
声が響いた。
直接心へ届く声。
『待っていて良かった』
黒い霧が消えていく。
蒼い光が戻る。
海そのもののような美しい姿。
そして。
額の歌の欠片が宙へ浮かび上がった。
第二の歌。
失われた旋律。
神代の鍵へ吸い込まれる。
カチリ。
再び音が響く。
鍵の三分の二が光る。
その瞬間だった。
失われた神守の身体が少し透ける。
蒼真は気づく。
「消えるのか?」
男は苦笑した。
「元から半分しか存在していない」
「どういうことだ」
「次に会う時に話そう」
男の身体が光へ変わっていく。
「出雲で待つ」
その言葉を残して。
男は消えた。
そして最後に。
小さな声だけが残る。
「蒼真」
「お前は最後まで忘れるな」
記憶の海が崩れ始める。
タケルが叫ぶ。
「戻るぞ!」
光が弾ける。
渦が巻く。
世界が反転する。
気がつくと。
蒼真たちは鳴門海峡の高台へ戻っていた。
夕日が海を赤く染めている。
神代の鍵には二つの歌が宿っていた。
残るはあと一つ。
そして。
鍵には新たな文字が浮かび上がっていた。
――第三の歌は讃岐に眠る
――祭りの火を探せ
瀬戸内の旅は続く。
次の舞台は香川。
讃岐の地。
失われた祭り火が眠る場所へ。




