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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第二章 渦潮の神

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第二十七話 忘れられた守り神

 記憶の海。

 無数の光が漂う深い蒼の世界で。

 巨大な影がゆっくりと近づいてくる。


 その姿は恐ろしかった。

 山ほどもある巨体。

 黒い霧で覆われた身体。

 そして額に埋め込まれた青い歌の欠片。


 だが。

 蒼真が最初に感じたのは恐怖ではなかった。


 悲しい。

 ただそれだけだった。


 影の瞳に宿る感情。

 それは怒りではない。

 憎しみでもない。

 長い長い孤独だった。


 潮も同じことを感じたらしい。

 小さく呟く。


 「泣いてる……」


 影は立ち止まる。

 そして蒼真を見つめる。


 ◇


 その瞬間。

 勾玉が強く光った。

 視界が白く染まる。


 蒼真の意識は。

 影の記憶へ引き込まれていった。


 海辺の村だった。

 今から何百年も昔。


 漁師たちが笑っている。

 子どもたちが走り回る。

 神社には旗が立ち並び。

 祭りの準備が進んでいる。


 そして。

 村人たちは皆、海へ向かって頭を下げていた。


 『守り神さま』

 『今年も海をお願いします』


 海の向こうから現れる巨大な影。

 だが今は黒くない。

 蒼く輝いている。

 まるで海そのもののように。


 子どもたちが手を振る。

 影も嬉しそうだった。


 『また祭りだね』

 『守り神さまも来てね』


 影は静かに頷く。


 蒼真は理解した。

 この存在は怪物ではない。

 神だった。


 海峡を守る神。

 村を守る神。


 だが。

 記憶は続く。


 時が流れる。

 村は少しずつ変わっていく。


 ◇


 若者が減る。

 祭りが縮小される。

 語り部がいなくなる。


 そして。

 ある年。

 祭りが途絶えた。


 誰も来ない神社。

 風だけが吹く境内。


 海の神は待っていた。


 一年。

 二年。

 十年。


 誰かが来るのを。

 祭りの日が戻るのを。


 だが。

 誰も来なかった。


 『忘れられた』


 神の声が響く。


 『私は忘れられた』


 蒼い身体が少しずつ黒く染まる。


 孤独。

 悲しみ。

 失われた祈り。


 それらが神を縛っていく。


 そして最後に。

 一人の少女が現れる。


 白い着物。

 長い黒髪。

 見覚えがあった。


 蒼真の祖母だった。

 若い頃の。


 祖母は海へ向かって頭を下げる。


 『忘れてないよ』


 神が顔を上げる。


 『あなたを覚えている人はいる』


 祖母は歌を歌った。

 優しい旋律。

 春呼びの唄の一部。


 神の身体から黒い霧が少しだけ消える。


 『いつか必ず』

 『次の神守が来る』


 祖母は微笑んだ。


 『だから待っていて』


 気がつくと。

 蒼真は記憶の海へ戻っていた。


 巨大な神が目の前にいる。


 その瞳から。

 光の粒がこぼれていた。

 涙だった。


 蒼真はゆっくり前へ進む。


 怖くない。

 逃げたくもない。


 祖母が約束したのなら。

 自分は応えたい。


 「迎えに来たよ」


 神が大きく目を見開く。


 「忘れてない」

 「まだ終わってない」


 記憶の海が静まり返る。


 その時。

 神の額に埋まっていた第二の歌の欠片が。

 強く輝き始めた。


 そして遠く。

 闇の奥から。

 あの黒い人影が再び姿を現す。


 今度ははっきり見えた。

 人の姿。

 黒い衣。

 そして。

 蒼真によく似た瞳。


 その人物は静かに呟く。


 「ようやく辿り着いたか」


 記憶の海が大きく揺れた。


 第二の歌だけでなく。

 蒼真自身の秘密もまた。

 少しずつ目覚め始めていた。

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