第二十三話 海風に残る祈り
沖合の海が黒く染まる。
青かった海面に。
墨を流したような闇が広がっていく。
潮の表情が険しくなる。
「来る」
海風が急に冷たくなった。
先ほどまで聞こえていた祭り囃子も。
子どもたちの笑い声も。
少しずつ遠ざかっていく。
土地の記憶が薄れている。
蒼真にはそう感じられた。
沖合から何かが現れる。
黒い霧。
いや。
それは無数の影だった。
人の形をしている。
だが顔がない。
名前もない。
記憶から削り取られた存在のようだった。
◇
「なんだよ、あれ……」
陸が息を呑む。
タケルが静かに答えた。
「忘却の残滓」
「人が忘れた想いの集まりだ」
「倒せばいいのか?」
陸らしい質問だった。
しかしタケルは首を振る。
「違う」
「本来、あれは敵じゃない」
蒼真はハッとする。
凪島の時もそうだった。
祭りを忘れた人々の想いが形になっていただけだった。
忘れられた側も。
忘れた側も。
どちらも悲しかっただけなのだ。
◇
その時。
海の上にいた少女が再び現れる。
花飾りの少女。
土地の記憶の中の存在。
「急いで」
少女が言う。
「歌を思い出して」
「思い出すって言われても……!」
蒼真が叫ぶ。
少女は少し寂しそうに笑った。
「昔はみんな歌えたのに」
その笑顔が。
胸に刺さった。
昔は当たり前だったもの。
大切だったもの。
それが忘れられてしまう悲しさ。
蒼真は海を見つめる。
風が吹いている。
波が寄せては返す。
◇
そして。
不意に思い出した。
幼い頃。
祖母と歩いた浜辺。
祖母が口ずさんでいた歌。
意味は分からなかった。
けれど優しかった。
「……あ」
蒼真の口から自然に言葉が零れる。
古い旋律。
懐かしい調べ。
歌った瞬間。
勾玉が光った。
潮が驚く。
澪も目を見開く。
「それ……!」
蒼真自身も分からなかった。
なぜ覚えているのか。
どこで聞いたのか。
なぜ歌えるのか。
◇
だが。
歌は自然に続いていく。
すると。
海風が変わった。
優しい風。
暖かな風。
春を連れてくる風。
花飾りの少女が微笑む。
その姿が少しずつ光に変わる。
「ありがとう」
少女の身体が光となって空へ昇る。
そして。
海の上に浮かんでいた光が蒼真の元へ飛んできた。
歌の欠片。
第一の旋律。
神代の鍵へ吸い込まれる。
カチリ。
何かが嵌まる音がした。
その瞬間。
黒い影たちが動きを止める。
やがて。
静かに海風へ溶けていった。
苦しそうでもなく。
恨みもなく。
ただ安堵したように。
潮が呟く。
「消えた……」
タケルは首を振る。
「違う」
「帰ったんだ」
蒼真は海を見る。
青い海が戻っていた。
どこまでも穏やかに。
◇
その時。
神代の鍵に新しい文字が浮かぶ。
――一つ目の歌を得た
――次なる記憶は渦の眠る地に在り
澪が顔を上げる。
「渦……」
タケルが頷く。
「鳴門だ」
鳴門。
渦潮の海。
そして。
淡路と四国を繋ぐ神話の境界。
蒼真は手の中の神代の鍵を見る。
一つ目の欠片は見つかった。
だが。
旅はまだ始まったばかりだ。
遠く。
誰にも見えない海の彼方で。
あの黒い影が再び揺らいでいたことを。
まだ誰も知らなかった。




