第十三話 前夜祭
神の泉が黒く染まっている。
潮の言葉を聞いた瞬間。
神輿蔵の空気が変わった。
「案内してくれ」
蒼真は立ち上がる。
潮は頷いた。
◇
夜の山道を急ぐ。
月明かりだけが頼りだった。
木々の間を風が吹き抜ける。
どこか不穏な気配。
しかし以前のような敵意は感じない。
ただ。
深い悲しみだけがあった。
◇
泉へ辿り着く。
水面は確かに黒く染まっていた。
鏡のような泉が。
まるで夜そのものを溶かしたような色になっている。
そして。
泉の中央。
黒い鹿が立っていた。
以前よりも巨大だった。
角は空へ伸び。
その身体は闇そのもののようだった。
◇
『明日で終わる』
静かな声が響く。
『終われば私は消える』
蒼真は眉をひそめる。
「なら問題ないだろ」
『そうかもしれぬ』
◇
だが。
その声はどこか苦しそうだった。
『だが祭りは終わらぬ』
『人は再び繋がろうとしている』
『だから私は存在できなくなる』
蒼真は気づく。
黒い鹿は抵抗しているのではない。
戸惑っているのだ。
◇
「お前」
「本当は祭りを壊したいわけじゃないんだな」
鹿は答えない。
だが否定もしない。
◇
潮が静かに言う。
「この子も忘れられた存在なんだよ」
泉の風が揺れる。
「人が諦めるたびに生まれて」
「希望が戻れば消える」
「誰にも覚えられない」
その言葉に
鹿は初めて潮を見る。
◇
『覚えられる必要はない』
そう言いながらも。
どこか寂しそうだった。
◇
その時。
蒼真の勾玉が光る。
泉の底。
神代の石碑。
そこから柔らかな光が広がっていた。
そして蒼真の脳裏に言葉が浮かぶ。
国生みの神々の言葉。
『忘れることもまた人の営み』
『だが思い出すこともまた人の力』
◇
蒼真は鹿を見つめる。
「お前は消えなくていい」
鹿が目を見開く。
『何?』
「諦める気持ちは誰にでもある」
「俺にもある」
「みんなある」
◇
陸も頷いた。
「しょっちゅうある」
「勉強とか」
「朝起きる時とか」
「宿題とか」
緊張感のない例えだった。
だが。
潮が吹き出した。
蒼真も少し笑う。
◇
「だから消す必要はない」
蒼真は続ける。
「でも諦めたままで終わらない」
「それだけだ」
◇
長い沈黙。
やがて。
黒い鹿はゆっくり目を閉じた。
そして。
身体から黒い霧が少しずつ剥がれていく。
◇
月明かりの中。
鹿の本当の姿が見え始めた。
白銀の毛並み。
透き通るような瞳。
美しい神獣だった。
◇
『そうか』
その声は穏やかだった。
『私は諦めではなく』
『再び立ち上がるための影だったのか』
◇
泉の黒い色が消えていく。
澄んだ水が戻る。
夜空の星が映り込む。
そして、
白い鹿は蒼真たちへ頭を下げた。
『見届けよう』
『明日の祭りを』
◇
次の瞬間。
鹿は無数の光となって夜空へ消えた。
星々の中へ溶けるように。
静かに。
優しく。
◇
帰り道。
三人は並んで歩いていた。
山の向こうには集落の灯りが見える。
明日は祭り。
誰もが待っている日。
◇
「楽しみだな」
陸が言う。
「うん」
蒼真も頷く。
潮は少し前を歩いている。
月明かりに照らされた横顔はどこか嬉しそうだった。
◇
神社へ戻ると。
境内には灯籠が並び始めていた。
地元の人たちが準備している。
笑い声が聞こえる。
子どもたちが走り回る。
祭りの神は。
社殿の前でその光景を見つめていた。
もう小さな姿ではなかった。
十代半ばほどの少年の姿になっている。
その目には涙が浮かんでいた。
「帰ってきた」
誰に言うでもなく呟く。
「わしの祭りが」
◇
夜空には満天の星。
明日は春迎えの祭り。
長く途絶えかけていた願いが。
再び人々の手によって受け継がれる日だった。




