第九話 国生みの欠片
泉のほとり。
半ば土に埋もれた石碑を前にして、誰も言葉を発せなかった。
風が吹く。
木々がざわめく。
しかし石碑だけは、長い時の中で変わらずそこに在り続けていた。
「これ……」
蒼真が近づく。
表面には古い文字が刻まれている。
読めるはずがない。
普通なら。
だが。
勾玉が淡く光った。
文字が揺らぐ。
まるで眠っていた記憶が目覚めるように。
◇
蒼真の頭の中へ言葉が流れ込む。
海。
空。
何もない世界。
その中心に立つ二柱の神。
国を生み。
島を生み。
命を生んだ神々。
そして――
その足元から広がる無数の光。
人々の祈り。
願い。
感謝。
それらが島々を結びつけている。
◇
『国は土地だけではない』
声が聞こえる。
男とも女ともつかない声。
遠い神代の響き。
『人が繋がり』
『想いを受け継ぎ』
『共に生きることで』
『国は形を持つ』
◇
蒼真は息を呑む。
それは神話の話ではなかった。
今の時代にも通じる言葉だった。
◇
視界が戻る。
蒼真は石碑に手をついていた。
「大丈夫?」
潮が支える。
「ああ」
少し息を整えながら頷く。
「見えた」
「何が?」
陸が聞く。
蒼真は石碑を見る。
「この祭りはただの祭りじゃない」
「え?」
「国生みの神話と繋がってる」
◇
清治が目を丸くする。
「そんな大層なものだったのか?」
「多分」
蒼真は頷く。
「昔の人は、この泉で神々に感謝してた」
「土地を作ってくれたこと」
「海を与えてくれたこと」
「生きていけること」
それが祭りの始まりだった。
◇
潮は石碑を見つめる。
「だから残ってたんだ」
「何が?」
「神気」
潮の瞳が揺れる。
「何百年も前の祈りが」
「まだここに」
◇
その時だった。
黒い鹿が再び動く。
泉の向こう。
静かにこちらを見ている。
敵意はない。
ただ悲しそうだった。
『人は忘れる』
声が響く。
『だから私は生まれた』
◇
「お前は何なんだ」
蒼真が尋ねる。
鹿は少しだけ首を傾げた。
『忘却ではない』
『諦めだ』
◇
三人が息を呑む。
『人が諦めた時』
『私は生まれる』
『もう無理だ』
『仕方ない』
『時代だから』
『どうにもならない』
その言葉は重かった。
◇
蒼真は理解する。
この獣は悪そのものではない。
人の弱さから生まれた存在だ。
祭りを消したのは獣ではない。
諦めだった。
誰も悪くない。
だからこそ厄介だった。
◇
すると。
守屋清治が前へ出た。
「……そうかもしれんな」
静かな声だった。
皆が振り向く。
清治は泉を見つめている。
「わしも諦めておった」
「清治さん……」
「人がおらん」
「金もない」
「若い者もおらん」
「だから終わりじゃと」
◇
老人は苦笑する。
「でものう」
「本当は終わらせたくなかった」
その声は震えていた。
「祭りが好きだったからな」
◇
風が吹く。
その瞬間。
泉の水面が光る。
黒い鹿の身体が少しだけ透けた。
まるで重い鎖が一つ外れたように。
◇
『そうか』
鹿は静かに言う。
『まだ残っていたのか』
悲しそうで。
どこか安心したような声だった。
蒼真はその姿を見つめる。
そして気づく。
この獣もまた。
忘れられた存在なのだと。
◇
その時。
石碑の文字がさらに光った。
眩い光。
泉の奥から何かが現れようとしている。
潮が目を見開く。
「神代の記憶……!」
水面の中央。
そこから現れたのは。
一枚の古びた木札だった。
神札。
だが普通ではない。
神代文字が刻まれている。
そして中央には。
渦を描くような紋様。
蒼真の勾玉が強く共鳴した。
◇
潮の顔色が変わる。
「これ……」
「どうした?」
潮は木札を見つめたまま答えた。
「出雲へ行く前に」
「見つけちゃいけないものを見つけたかもしれない」
春の風が泉を渡る。
そして、
遠い神代から続く大きな謎が、静かに姿を現し始めていた。




